寺野東遺跡
寺野東遺跡

環状盛土の模型で往時の様子がわかる

寺野東遺跡地図

 関東地方の縄文遺跡は決して珍しくはないが、ここは一風変わっている。縄文人の集落跡の周囲が円形に土を盛り上げた形になっている。栃木県南部の小山市にある寺野東遺跡の「環状盛土遺構」だ。
 1995年までの調査で明らかになり、以降、同種の遺構は関東各県はじめ東北、九州でも続々と出てきた。千年間にもわたって縄文後期の人々が定住し、土木・建築の高いレベルの技術を持ったことがわかった。
 鬼怒川の支流、田川の西側に延びる台地上。茨城県の結城市に近い県境に位置するこの遺跡では、旧石器から古墳、平安時代までの集落や墓地が発掘された。

大規模な土木工事

 第一印象はゴルフ場のショートコース。160メートルほど北方に向かって芝生が延びており、広場の中央はへこんでいる。左手には土手のような丘が3カ所ほど見える。窪地(くぼち)部分との高低差は5メートルほどある。この丘が盛土遺構だ。
 右手にも同様の高まりがあったはずだが、江戸時代、用水路を造ったときに削られてしまった。円形の盛土部分がドーナツを半分にしたような格好で残った。
 工業団地造成がきっかけで現場に調査のくわが入ったのは90年。多量の土器や土坑が見つかった。網目文様の土器から縄文時代のものと判明。掘り下げた土の層を分析すると色の異なる層が上下に積み重なっていた。中央の窪地部分の土を人為的に移動した結果らしい。
 他の部分の高まりでも同様。つなげると、環状に土盛りをしたことが分かった。もっこのようなもので、縄文人は土を運び、工事に汗を流したらしい。ダンプカー1500台分の土量という。
 何のための盛土かについては謎のままだ。一時は「天体観測の場」との見方まで出た。南東方向に筑波山の頂きが見え、冬至の日にそこから太陽が昇ることがその根拠。
 小林達雄国学院大教授は「縄文人が冬至や夏至をわきまえていたことは確かだが、暦を使っていたわけではない。集団の連帯意識を高める聖なる広場、祭祀(さいし)の場だったのでは」と見る。
 調査では、上の方の地層からより古い土器が出てくるという考古学の常識にない逆転現象もあった。長期間にわたって土を削り盛り上げる作業を続けたのだろう。
 狩りや漁のために小集団で移動を繰り返した縄文人だが、ここでは何世代にもわたって、住み着いてきた。発掘調査に当たった関係者は、千年都市ならぬ「千年のムラ」と口をそろえる。

水場で木組み建築

 縄文人の知恵の高さを感じるもう一つの見ものが水場遺構と木組み遺構だ。環状盛土遺構の西側を流れる小川があり、そこから生活に必要な水を引き込んだ。川の底には板状の木を正方形に組み合わせた建築物が14基も見つかった。
 トチの実などのアク抜きに使ったようだ。丸太から板を作り、その端に切れ込みを作って縦横の板をつなぎ合わせる「仕口」の技術があった。同じ場所に定住するうちに、湧水(ゆうすい)や木を加工利用する知恵がついたのだろう。