日本の史跡101選 出かけよう日本の記憶をたどる旅へ
先月急逝した「神様、仏様、稲尾様」の旧西鉄・稲尾和久投手が半世紀前、巨人との日本シリーズで3連敗のあと4連勝の口火を切ったのが福岡・平和台球場。その球場跡地で今、古代の九州総督府・大宰府の迎賓館だった鴻臚館(こうろかん)の発掘作業が進められている。
20年前、球場外野席の改修工事で遺構が発見された鴻臚館は、大宰府の外交、貿易の出先機関。本庁にあたる大宰府は鴻臚館から南東に十数キロ内陸の太宰府市にあり、往時は直線の官道で結ばれていたと推定されている。
侵攻恐れ内陸に
大宰府は九州諸国と壱岐・対馬を管轄、同時に大陸外交と国防を司る役所で、7世紀初めに「筑紫大宰」の記述があり、そのころは博多湾岸に組織があったという。663(天智天皇2)年、百済救援のため朝鮮半島に軍を進めた日本は、錦江(きんこう)河口の白村江の海戦で唐の水軍に大敗、撤兵した。このため大陸からの攻撃に備え、施設を内陸部に移したとみられる。
現在地に置かれた大宰府政庁は当初掘立柱建物だったが、8世紀初めに朝堂院形式の礎石建物に替わり、10世紀半ばには藤原純友の乱で焼失、再建と、3期にわたって変遷している。現在、平面復元され、公園になっているのは最後の政庁跡である。
大宰府移転と同時に筑紫平野の入り口を遮断すべく水城(みずき)と呼ぶ土塁を築き、南北の山には大野城、基肄(きい)城を置いて防衛ラインを固め、防人(さきもり)を派遣して守らせた。政庁跡の西には、現在も1.2キロにわたって水城の大堤跡が残っている。
基底部の幅80メートル、高さ十数メートルに突き固めた土塁で、博多側には幅60メートルもの濠を掘った。九州自動車道、JR鹿児島本線などが3つに分断しているが、木の生い茂った水城跡に上がると、博多方面からの進路をさえぎる長大な壁であったことが見てとれる。
現在地に置かれた大宰府政庁は当初掘立柱建物だったが、8世紀初めに朝堂院形式の礎石建物に替わり、10世紀半ばには藤原純友の乱で焼失、再建と、3期にわたって変遷している。現在、平面復元され、公園になっているのは最後の政庁跡である。
大宰府移転と同時に筑紫平野の入り口を遮断すべく水城(みずき)と呼ぶ土塁を築き、南北の山には大野城、基肄(きい)城を置いて防衛ラインを固め、防人(さきもり)を派遣して守らせた。政庁跡の西には、現在も1.2キロにわたって水城の大堤跡が残っている。
基底部の幅80メートル、高さ十数メートルに突き固めた土塁で、博多側には幅60メートルもの濠を掘った。九州自動車道、JR鹿児島本線などが3つに分断しているが、木の生い茂った水城跡に上がると、博多方面からの進路をさえぎる長大な壁であったことが見てとれる。
遣唐使ら往来
結局、懸念した唐の侵攻はなく、その後も11世紀初めの女真族による刀伊の入寇(にゅうこう)があっただけ。大宰府は“遠(とお)の朝廷(みかど)”と呼ばれるほどの地方最大の官庁、大陸外交の最前線基地として栄え、唐僧・鑑真や最澄、空海はじめ、多くの遣唐使らが行き来した。
また無名の防人をはじめ、この地に滞在した人々が詠んだ歌が『万葉集』に採用されている。大宰府の長官、大宰帥(だざいのそつ)として赴任した大伴旅人は、妻を亡くして「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」と詠み、次官の大宰大弐(だいに)・小野老(おののおゆ)が赴任直後にうたった「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今さかりなり」の歌は、政庁跡の脇の石碑に刻まれている。
外寇(がいこう)への恐怖も、遣唐使の期待や大伴旅人らの悲哀も遠く忘れ去られ、遺跡だけが残る今、太宰府で賑(にぎ)わっているのは天満宮である。大宰権帥(ごんのそつ)に左遷され、悲運の内に没した菅原道真の墓所に建てられたが、1100年後の今も学問の神様として参詣客が絶えない。
鴻臚館跡にはその後、福岡城が建てられ、戦後、平和台球場となる。球場は10年前に閉鎖、取り壊されたが、最後まで残っていた外野壁も今年度内に取り壊され、鉄腕稲尾の思い出の地も姿を消す。
また無名の防人をはじめ、この地に滞在した人々が詠んだ歌が『万葉集』に採用されている。大宰府の長官、大宰帥(だざいのそつ)として赴任した大伴旅人は、妻を亡くして「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」と詠み、次官の大宰大弐(だいに)・小野老(おののおゆ)が赴任直後にうたった「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今さかりなり」の歌は、政庁跡の脇の石碑に刻まれている。
外寇(がいこう)への恐怖も、遣唐使の期待や大伴旅人らの悲哀も遠く忘れ去られ、遺跡だけが残る今、太宰府で賑(にぎ)わっているのは天満宮である。大宰権帥(ごんのそつ)に左遷され、悲運の内に没した菅原道真の墓所に建てられたが、1100年後の今も学問の神様として参詣客が絶えない。
鴻臚館跡にはその後、福岡城が建てられ、戦後、平和台球場となる。球場は10年前に閉鎖、取り壊されたが、最後まで残っていた外野壁も今年度内に取り壊され、鉄腕稲尾の思い出の地も姿を消す。


