江馬氏城館跡下館跡
江馬氏城館跡下館跡

工事が進行中の下館跡庭園

江馬氏城館跡下館跡地図
 飛騨の山麓(さんろく)に、中世の城館が出現した。10月下旬のオープンをめざし、神岡町では「史跡江馬氏城館公園」の工事が進んでいる。とりあえずは、整備の終わった範囲から公開していく予定だ。

交通の要衝

 江馬氏は、室町時代から戦国時代にかけて北飛騨の高原郷(いまの飛騨市神岡町と高山市上宝(かみたから)町)一帯を治めた領主である。
 不詳なところも多いが、13世紀に北条氏の一門または伊豆の江馬氏の一族が高原郷に入ったといわれる。14、5世紀に室町幕府の認める有力在地勢力に成長した。禅林の文化人だった万里集九(ばんりしゅうきゅう)が1489年に高原城下に来て、江馬氏の饗応(きょうおう)を受けている。
 飛騨の山奥に豪壮な城館を建てられた富の源泉は何か。この場所は飛騨と越中を結ぶ越中街道と、越中と信州・関東を結ぶ鎌倉(信州)街道をつなぐ脇街道の上宝道が通り、さらに高原川の水運も越中と信州を結ぶ交通の要衝だった。出土品を見ると、日本海側と太平洋側を結ぶ物流の接点だったことが分かる。交易の利益がもたらされたのではないか。
 また養老年間(717―24年)に黄金が出たといわれる。本格的な神岡銀山の開発は豊臣政権下の金森長近からだが、その前にも小規模な採掘があったかもしれない。
 江馬氏の歴史がはっきりするのは、戦国時代の江馬時経からだ。武田信玄と上杉謙信の間で揺れながら、南飛騨の三木氏と争うが、孫の輝盛が討ち死にして後、滅亡。三木氏も豊臣秀吉に滅ぼされた。
 江馬氏の本城は、下館の南東側の山に築かれた高原諏訪城(未調査)だが、平時は下館にいた。13世紀後半から16世紀後半までこの地にあり、遺構の全体像が明らかなのは、15世紀後半から16世紀前葉の最終時期である。
 館は東の山を背に、西南北の三面が堀と土塀で囲まれている。堀はつながっていない。南北約97メートル、東西は推定114メートルある。主門を入ると広場。右手に板塀が復元された会所(客殿)まで延び、その向こう側に庭園がある。客は会所に通されないと、庭園を見ることができない。
 建物はほかに常御殿、台所と対屋(たいのや)などがあるが、上部構造が不明のため礎石建物跡を板床で表示し、催しのステージにも使えるようにしてある。

幕府直結の象徴

 城館最大の特徴である石組みの庭園遺構は見事だ。長径が2メートル近い大石が多く配置されて力強い。中央に東西に長い不整楕円(だえん)形の池がある。最大部が東西約27メートル、南北約12メートル。常時、水を溜(た)める池ではないようだ。庭園を鑑賞する会所も復元した事例は全国で唯一という。
 城館は足利義満の建てた「花の御所」をモデルにしたとみられる。それは単に地方権力者の憧(あこが)れや好みだけでなく、幕府に直結していることを構造物によって示した権力装置なのだろう。
 飛騨市神岡町といえば、小柴昌俊さんのノーベル賞を生んだ東京大学宇宙線研究所の観測施設カミオカンデ、その発展したスーパーカミオカンデが有名だ。飛騨の花の御所と、今昔のコントラストが興味深い。