屋嶋城
屋嶋城

屋島の全景、左手前の湾が源平古戦場(高松市提供)

屋嶋城地図
 高松市の郊外、瀬戸内海に突き出た標高290メートルの屋島。その南西の急峻(きゅうしゅん)な崖(がけ)を、市内に住む平岡岩夫氏が木立をかき分けながら登っていた。そろそろ山頂かなと見上げたところに、高さ5メートルほどの石垣が目に飛び込んできた。「捜し求めていた城の遺構とすぐ直感した」。1998年1月のことだ。それが古代山城を解明する手がかりとなった。

日本書紀に記述

 屋島の高台からは、穏やかな海と瀬戸の島々、白い航跡を描きながら行き交う大小の船が眺められる。古代から畿内と西日本、さらには遠く朝鮮半島、中国大陸とを結ぶこの瀬戸内は、陸上をしのぐ重要な交易ルートであった。
 要衝の地、屋島は、しばしば歴史の舞台にも登場する。平安時代末期、源平の合戦の主戦場であったことはつとに有名だ。しかし、その戦いを遡(さかのぼ)ることおよそ520年、飛鳥時代にもすでに軍事的な役割を担っていた。それが「屋嶋城」と呼ばれる山城である。
 当時、朝鮮半島の百済(くだら)を支援するため大和朝廷は大軍を送り込むが、唐・新羅(しらぎ)の連合軍に白村江(はくそんこう)で惨敗。連合軍の日本侵攻を懸念した朝廷は防御策を講じた。『日本書紀』天智天皇6(667)年11月の条に、「高安城(たかやすのき)」(大阪・奈良府県境)、「金田城(かなたのき)」(長崎県対馬)とともに築城が記述されたのが屋嶋城だ。だがそれがどんな城だったのかは謎に包まれたままだった
 ようやく1980年に島の西岸、標高100メートルのところで、石塁(せきるい)らしきものが認められたものの、明確な評価には至らなかった。
 屋島はもともと南北5キロ、東西2キロ、周囲を絶壁がめぐる台地状の島。浅い干潟で対岸と接していた。江戸時代、塩田開発のために埋め立てられて地続きになった。地名も潟元(かたもと)というその麓(ふもと)から参道を上ると、40分ほどで山頂にある四国霊場八十四番札所、屋島寺(やしまじ)にたどり着く。
 平岡氏が屋嶋城の痕跡を見つけたのは、この参道中腹から急な崖を登った斜面。重機械メーカーを早期退職した平岡氏が、屋島の歴史に魅せられ、幻の城を追い求め始めて2年後のことだ。

懸門構造の城門

 平岡氏の発見をもとに、高松市教育委員会や専門家が本格的な調査に乗り出し、2002年、ついに幅5メートル、奥行き10メートルの石積みの城門を見つけた。門の入り口に2メートルの段差を設け、通常ははしごを架けているが、戦闘時には取り外せる「懸門(けんもん)構造」であったことも分かった。水門や貯水池と想定される遺構も出土し、日本書紀の記述が実証されたのだ。
 施設の配置など詳細はまだ不明だが、古代山城としては最大級の規模と見られる。高松市教委は全容を解明し、7年後には一般に公開しようと調査中だ。
 島の東側に源平の古戦場がある。源義経や那須与一(なすのよいち)などが演じるエピソードによって、観光スポットになっている。
 源平合戦のようにドラマ性も派手さもないが、1300年の眠りから覚めたこの屋嶋城、古代日本と大陸との緊張関係や当時の山城の構造を探るうえでも解明に期待がふくらむ。