五稜郭跡
五稜郭跡

五稜郭タワーから見た五稜郭跡

五稜郭跡地図

 フランスを旅すると、あちこちにヴォーバンの要塞(ようさい)というのがある。上から見ると星型の稜堡(りょうほ)式という城郭だ。火砲の発達に合わせて低く厚い土塁、敵に十字砲火を浴びせられるように突き出した稜堡をもつ。

箱館開港で築造

 ヴォーバンは太陽王ルイ14世に仕えた築城家で元帥、近代的築城法の完成者だ。そのスタイルの城郭が、時空を隔ててはるか日本の江戸時代末期の蝦夷(えぞ)地に築かれた。それが五稜郭である。
 1853(嘉永6)年、アメリカのペリー提督が黒船で来航し徳川幕府に開国を要求、幕府は安政の日米和親条約を結び下田と箱館を開港する。
 箱館奉行が置かれ、箱館山麓に奉行所を置いたが、外国人対策や港湾防備などから、港から離れた内陸に奉行所を移転する。その設計を命じられた諸術調所(しらべしょ)教授役の武田斐(あや)三郎が、フランス軍艦の将官から情報を得て考案し、1864(元治元)年に完成させた。
 水堀の外周が約1.8キロ、史跡指定範囲は約25万平方メートルある。歩き回る前に、まず高さ107メートルの五稜郭タワー展望台に登って見渡せば、全容を立体的に実感できる。
 稜堡と呼ばれる5つの突角をもつ星型五角形に石垣と土塁が巡らされ、周囲に水堀を配し、南西側に半月堡(馬出堡)と呼ばれる堡塁をもつ。半月堡は当初計画では5カ所に設けるはずが、予算の関係で縮小された。
 ほぼ中央に奉行所庁舎があった。一部が2階建てのほかは平屋造り。中庭を含む建物面積は約3000平方メートル。太鼓櫓(やぐら)が大棟の上に載った格好で、その銅葺(ぶ)き屋根まで下から約16メートル。建築当時は郭外から土塁越しに緑青の屋根が見えたはずだ。

蝦夷島政府

  1868(明治元)年、新政府に箱館奉行の業務を引き継ぎ、箱館裁判所(箱館府)が五稜郭に開庁する。脚光を浴びるのは、箱館戦争である。榎本武揚に率いられた旧幕府脱走軍が上陸し、五稜郭に無血入城した。
 その時、五稜郭には大砲もなく、全方位の大砲は入城した旧幕府軍が据えつけたようだ。榎本らは蝦夷島政府の樹立を宣言、アメリカ合衆国にならって選挙で榎本が総裁、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並(なみ)になった。
 1869(明治2)年、新政府軍が上陸し総攻撃する。土方らが戦死し、五稜郭はあえなく陥落した。明治政府の所管となり、開拓使本庁が札幌に移転した時、材木調達のため奉行所庁舎など大半は解体された。
 練兵場に使われた後、函館(明治2年より改称)区へ無償貸与され、1914(大正3)年に公園となる。史跡五稜郭跡が国の特別史跡に指定されたのは1954(昭和29)年だ。
 公園内には、当時の建物で唯一現存する兵糧庫がある。そのそばの市立函館博物館五稜郭分館の前に、使用された実物のブラッケリー砲とクルップ砲が置かれている。現在、奉行所庁舎の復元工事が始まり、2010年に完成予定だ。静かな公園は、にわかに幕末にタイムスリップするだろう。