伊良湖東大寺瓦窯跡
伊良湖東大寺瓦窯跡

「東大寺大佛殿瓦」の刻印がある軒丸瓦(上)と軒平瓦(田原市教育委員会提供)

伊良湖東大寺瓦窯跡地図

 歌舞伎十八番の「勧進帳」。弁慶が白紙の勧進帳を読み上げ、山伏に扮(ふん)した義経一行は、無事安宅の関を通過する。鎌倉時代初期、戦火で焼けた東大寺再建のため全国的に資金や資材を調達する勧進が行われていたからこそのストーリーだが、義経が衣川の館で果てたころ、備前(岡山県)万富(まんとみ)と、愛知県・渥美半島の伊良湖では、新しい東大寺に葺(ふ)く屋根瓦が焼かれていた。
 平安末期の源平の争いのさなか、平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き討ちで東大寺は大仏殿はじめ伽藍(がらん)の大半が焼失した。復興の責任者、大勧進職に就任したのが、勧進帳読み上げでも名前が出てくる俊乗房重源(ちょうげん)。勧進のかたわら、重源は造営料国として与えられた備前・万富で、30万―40万枚ともいわれる屋根瓦を焼かせた。

伊勢神官が仲介

 ところが、万富だけでは足りなかったようで、伊良湖にも瓦製造を発注している。中世の窯場としては瀬戸、常滑(とこなめ)、越前、信楽(しがらき)、丹波、備前の六古窯が名高いが、平安から鎌倉時代にかけて渥美半島にも100群500基以上の窯場があったのだ。
 伊良湖では江戸時代から東大寺の刻印のある瓦が見つかっていたが、東大寺再建のための窯場だったことが確認されたのは40年ほど前。1966(昭和41)年、用水ダム建設の際、堤防南端の傾斜地から3基の窯跡が見つかり、「東大寺大佛殿瓦」「東」などの刻印のある瓦が発掘された。その2年後、東大寺鐘楼の屋根葺き替えが行われ、数枚の平瓦に刻まれた「東」の文字が、伊良湖出土の瓦と一致することがわかった。
 地元奈良や瀬戸などの六古窯でなく、なぜ渥美で焼いたのか。発掘した軒丸瓦などを展示する田原市博物館渥美郷土資料館の学芸員、天野敏規さんは「このあたりは伊勢神宮の神官領が多く、古くから社寺向けの経筒なども焼いていた。重源の意向を知った伊勢の神官が渥美古窯の技術の高さを吹聴したのでは」と推測する。

屋根重量2000トン

 1980(昭和55)年、東大寺の昭和大修理落慶供養にあわせ、伊良湖で当時の寸法の平瓦を作ったところ、1枚15キロにもなった。昭和大修理で大仏殿の屋根から降ろされた明治期以前の瓦は総数10万2800枚、瓦を留める土も含め総重量は約2000トンで、瓦や土を降ろしたあと、軒先が10センチも持ち上がったという。
 通常の家屋の瓦とは比べものにならない重量であり数量。それだけの瓦をどう運んだのか。渥美古窯の焼き物は海路で北は奥州平泉、西は九州太宰府にまで運ばれており、東大寺瓦も近くの福江港から船で紀伊半島を回り、大阪湾から淀川、木津川伝いに運ばれたと考えるのが合理的と、天野さんはいう。
 東大寺の特注を受けた伊良湖の瓦窯は、集中的に瓦を焼き上げたあとは、再び火を入れることはなかった。農村向けの壺(つぼ)や甕(かめ)など日常雑器を作るかたわら、社寺や貴族向けの優美な焼き物でも知られていた半島各地の渥美古窯も、武家の時代の新たな需要に応じきれず、瀬戸を中心にした磁器生産などに押され、衰退していったという。