西都原古墳群
西都原古墳群

男狭穂・女狭穂塚古墳、図は形状
(西都原考古博物館提供)

西都原古墳群地図

 宮崎市から高千穂峡へ向かう「ひむか神話街道」を西北にたどる。台地を上りきると牧場のような緑の空間が広がる。特別史跡、西都原古墳群だ。
 東西2.6キロ、南北4.2キロの広大な遺跡は311基の古墳が集まる。築造は3世紀から7世紀中ごろまで、約350年間にわたる。前方後円墳のほか円墳、方墳、九州独特の地下式横穴(おうけつ)墓などが居並ぶ。
 南九州の火山灰台地をこの地方では原(はる)と呼ぶ。水田農耕に適さぬ西都の原に、これだけの古墳を維持する勢力が定住したのはなぜか――。

特例で探査

 大正時代に組織的な調査が始まり、戦後は「風土記の丘」の第1号になった。2004年には県立の考古博物館ができて精力的な調査、意欲的な展示が始まった。
 最近の成果は、古墳群のなかで卓越した規模を持ちながら手付かずだった男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)という一対の古墳調査だ。
 古くからの伝承で天孫降臨の主人公ニニギノミコトとその妻コノハナサクヤビメの墓とされており、皇室陵墓参考地として調査の対象外だった。県は宮内庁から異例の許可を得て、掘らずにレーダーで地下の様子を探る探査を04―06年に実施した。
 その結果、まず男狭穂塚が造られ、その前方部を削って女狭穂塚を築造したとする在来の定説が変わった。両古墳は厳密な位置関係を配慮したうえで同時期に築かれていたのだ。女狭穂塚は、大阪府藤井寺市の仲津山古墳をほぼ5分の3に縮小したものであることも確認できた。
 博物館主幹の北郷泰道(ほんごうひろみち)氏は「古墳造りは正確な設計や約束事にもとづいている。仲津山古墳の設計図をもとに女狭穂塚は築造されたのだろう。綿密な計画のもとで被葬者の生前から長期にわたって進めた古代日向の一大プロジェクトだった」と地中探査の成果を明かす。

隼人の雄か

 となると墓の主は誰か。北郷氏は5世紀前半に実在したといわれる仁徳天皇妃、髪長媛(かみながひめ)と、その父である日向の豪族、諸県君牛諸(もろかたのきみうしもろ)が眠っているのではないかと推測する。かねてこの仮説を温めていた北郷氏は「調査で自信が確信に変わった」と胸を張る。
 「九州北部にあって、大陸と密接な関係を持つ勢力をけん制するために、ヤマト政権が南九州土着の民と結んだ」。土着の民は後に隼人(はやと)と呼ばれ敵視されたこともあった。
 だが、当時の畿内勢力は王権の象徴である前方後円墳の築造を許し、豪族の子女を受け入れ姻戚関係を結んで北九州や半島勢力と対峙(たいじ)した。畿内と日向は、海路をたどれば意外に近い。
 仲津山古墳は応神・仁徳朝の古墳と考えられており、築造の時期も5世紀初頭。髪長媛は皇子と皇女をもうけるが王権をめぐる内紛をへて日向系の勢力は断絶する。西都原での前方後円墳の築造が途絶える時期とも符号する。
 西都原の古墳様式の変遷は、勃興(ぼっこう)期のヤマト王朝の政変と密接に連動した。西都原絶頂期の親密な関係が、のちに作られた建国神話の晴れ舞台を日向に用意したのかもしれない。