椿井大塚山古墳
椿井大塚山古墳

前方部(線路下)に住宅が密集(木津川市教育委員会提供)

椿井大塚山古墳地図

 線路脇の工事現場で石室が見つかり、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が30数面まとまって出てきたのだから、考古学者が大騒ぎしたのは無理もない。だが、地元の住人もたまげた。古墳は線路の向こうの裏山と思っていたら、線路の手前、自分たちの家の下も古墳だったというのだから。
 京都府の最南端、木津川市椿井地区にある椿井大塚山古墳は、古墳時代前期(3世紀中ごろ)の前方後円墳である。ところが1896(明治29)年、奈良鉄道(現JR奈良線)の敷設工事によって、前方部と後円部が分断されてしまった。地元では当時、後円部のみが奈良時代の政治家、藤原百川(ふじわらのももかわ)の墓とされており、墓を多少削る程度の認識だったろう。
 半世紀余をすぎた1953(昭和28)年、旧国鉄が線路脇の斜面を緩やかにするために後円部を削ったところ、竪穴式の石室が現れ、三角縁神獣鏡を含む大量の副葬品が発見された。京都府教委、京大による調査・測量の結果、線路東側の丘陵を後円部、西側の住宅地を前方部とする前方後円墳であることがわかったのである。

「同笵鏡論」論争

 地元の人の戸惑いをよそに、椿井大塚山古墳は一躍考古学界の注目を浴びた。古墳で発見された三角縁神獣鏡と同型の鏡が各地で出土していることに着目した京大の小林行雄講師(後に教授)が、大和政権が全国に影響力を及ぼす際に、古墳の被葬者が各地の豪族に神獣鏡を配布したのではという「同笵(どうはん)(鋳型が同じ)鏡論」を立てたからである。三角縁神獣鏡は「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にある魏が卑弥呼(ひみこ)に贈った鏡とされ、邪馬台国畿内説の有力根拠として論争を巻き起こした。
 その後、天理市の黒塚古墳から椿井大塚山に匹敵する33面の三角縁神獣鏡が出土しており、神獣鏡が中国製か国産かなども含め、「卑弥呼の鏡」を巡る議論は果てしがない。

住民との共存

 椿井大塚山古墳は2000(平成12)年、「同笵鏡論をはじめ日本の古代国家形成の問題を考える際、きわめて重要な位置を占めている」として国史跡に指定された。
 指定当時、前方部に7軒、後円部に2軒の民家が建っていたが、民有地ごと史跡になるという異例の指定だった。史跡となれば家の改築なども規制されることになるが、古墳発掘からすでに半世紀近くたっており、当初は戸惑った住民も「椿井大塚山古墳を守る会」を組織して、古墳を保護しながら暮らす道を選んだ。
 今年3月、地元の山城町など3町が合併して誕生した木津川市では、当面後円部の民有地を買収して史跡公園にする計画を進めているが、民家に埋もれた古墳だけに調査もままならない。一昨年度の調査でようやく前方部の墳端がほぼ確定したという。
 古墳の後円部は埋め戻して公開されているが、周辺は筍(たけのこ)栽培の竹林であり、放っておけば竹が伸び、雑草が生い茂る。「団体での見学があるので、今日も草刈りをしてきたところですよ」。市の文化財保護課も住民と共存する古墳保護のため、汗みどろの日々である。