尚古集成館
尚古集成館

反射炉工場跡(手前)と尚古集成館

尚古集成館

 鹿児島市の郊外、磯と呼ばれる地区は昔から景勝地として知られる。桜島と錦江湾が目の前に広がる。薩摩の殿様は別邸を置き、雄大な借景を楽しんだ。幕末になると、この地は別の顔を表す。工場群が立ち並び「集成館事業」という名の殖産興業の拠点となった。

幕末に工場煙突

 ご当地作家、海音寺潮五郎が書いている。「西郷が国を出た時、鹿児島は日本唯一の近代工業都市であった。数ヵ所の工場には煙突が立って煙を上げ、機械のうなりが南国の明るい空に響いていた」(新潮社文庫『西郷と大久保』)。ペリー艦隊の来航に始まる幕末の混乱期にこの南国に近代工業が花開いていたとは――。
 当地を訪ねてみると、あながち小説家の誇張とはいえないことが実感できる。磯庭園の正面左手に事業の遺産を展示する博物館「尚古集成館」があり、巨大な大砲と反射炉の遺構が迎えてくれる。大砲は150ポンド(約70キロ)の複製で、反射炉は当時のもの。石造の土台部分しか残っていないが、150年前には高さ20メートルもの大砲製造設備が2基あったという。
 ひと口に大砲と言っても、自前で造るとなると大変な技術が必要となる。唯一の指南書はオランダ語の文献だった。それを翻訳し、試行錯誤を繰り返しながら組み立てた。反射炉以外にも溶鉱炉や工作機械が必要だし、弾丸や銃砲なども量産しなくてはならない。当時、鉄製の大砲造りでは佐賀藩が先輩格。その助言も参考にした。
 藩は造船にも力を入れた。磯庭園の近くには造船所跡の記念碑がある。和洋折衷の3本マスト船や本格的な洋式軍艦、日本初の蒸気船などを建造した。幕府に献上した船もあり、それには外国船と区別する目的から日の丸の旗を掲げた。日本の国旗の始まりであった。
 尚古集成館の中に1枚の絵図がある。佐賀の藩士が視察に訪れた際、描いたもの。反射炉を中心に多くのモノづくりが行われていたことを示している。往時の写真や手紙などから分析した製品は、機械紡績、薩摩切子として今に残るガラス工芸、写真、陶磁器、活版活字、電信、ガス灯、農機具、食品等々。

ハイテク大国の夢

 銃砲と造船の軍需だけでなく、民生にも気配りし、工場群のすそ野が広がっていったのだ。ピーク時には実に1200人もの技師や職人が働いていた。
 事業の推進者は藩主の島津斉彬。幕末雄藩の中でも飛び切りの名君として知られる。政治の舞台で公武合体を進める一方で、殖産興業に力を注いだ。その背景に強烈な欧米への危機意識があった。
 国家統一と富国強兵こそが唯一の対抗策と自覚していた。だから、藩主自らがトップダウンで工場の稼働や技術開発に力を入れた。同館によれば「元々、斉彬公は今で言う理科系の人」。近代文明への好奇心と時代の風が次々とアイデアを生み出した。
 薩英戦争や戊辰戦争では武器弾薬の供給に当たり、成果を上げた。維新後の西南戦争で大半の工場が焼失、集成館事業は幕を閉じた。しかし「ハイテク大国日本の原点」がここにあった事実は消えない。