登呂遺跡
登呂遺跡

復元された高床倉庫(手前)と竪穴式平地住居

登呂遺跡地図

 「終戦直後の日本人が勇気付けられたもの、その代表的なものが、並木路子の『リンゴの唄』であり、フジヤマのトビウオ、古橋広之進、そして日本人の誇りと2000年の歴史を再びよび起した登呂の発掘であった」
 登呂発掘がきっかけとなって作られた日本考古学協会の会長を務め、明治大学の学生として最初の本格的発掘作業にも参加した登呂遺跡再整備検討委員会委員長の大塚初重明治大学名誉教授は著書の『考古学から見た日本人』(青春新書)の中で、こう述懐している。

発掘でカップル誕生も

 戦局が厳しくなってきた1943(昭和18)年、住友金属工業のプロペラ製造工場の建設現場で発見された。47年、皇国史観の払拭(ふっしょく)、「科学的考古学」の始まりということで、考古学者だけではなく、人類学、農政学、地質学など多くの分野の学者たちによる共同発掘作業が行われた。「当時の現場近くの女子高校生も応援に駆けつけ、一時は集団見合いの場でもあったようだ」(小林達雄国学院大学教授)。
 そこで明らかになった登呂遺跡からは当時では最大の弥生時代後期の水田と12軒の竪穴式平地住居跡や2棟の高床倉庫などが見つかり、さらに、多くの土器や木製品、装飾品、衣類などからひとつの村落が丸ごと出土、「世紀の大発見」として国中をわかせた。
 史跡公園として復元された住居と倉庫、水田、そして隣接して建てられた博物館に陳列されたつぼやかめ、木製のへら、杓子(しゃくし)、くわ、すきなどの農機具、機織りの道具、田下駄(げた)、いす、さらに勾玉(まがたま)、腕輪、指輪などを見ると当時の弥生人の生活が目に浮かぶようだ。博物館では貫頭衣を着て火起こしなど当時の生活の体験もできる。この日も、たまたま博物館に来ていた外国人の家族が木のへらと皿で木の実のすりつぶしを楽しんでいた。 

住居の基本は同じ

 登呂ムラがあったのは1800年前。邪馬台国の卑弥呼が活躍した時代の100年ぐらい前だろうか。たまたま住居の1軒が復元中だった。柱を立て、叉首(さす)に垂木をかけ、周りに土を盛り外側を板でとめて、カヤをふく。倉庫の場合は柱に床を張る。組み合わせ部分は臍(ほぞ)と臍穴でつなぐ。今様の日本家屋造りと基本は一緒だ。
 水田遺構で、この時代には管理された稲作が行われていたことがわかった。ただその後日本の各地で水田や稲作のあとが発見され、登呂遺跡の専売特許ではなくなってしまったが、「水田農耕が始まったのは弥生時代からという ことを知る意味で大発見だった」と小林教授。
 教科書にも大きく紹介され、静岡駅の北口からバスで 15分ほどという地の利もあって登呂遺跡は小中学生の社会科見学の定番コースだった時期も長い。ただ、1989年に佐賀県の吉野ケ里遺跡が見つかり、92年に青森県三内丸山遺跡が出てくると派手な建物跡がない登呂遺跡の影は薄くなり、多くの教科書から名前が消えた。
 このため、現在「弥生のムラを植栽も含めリアルに復元、これを都市公園が囲むという新しい公園」(静岡市役所文化財課)へ衣替えを進めている。弥生遺跡の老舗は4年後に再デビューを目指している。