明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

港ヨコハマの歴史を映し82年。後方はタワー新館(写真・長田 浩)

所在地:神奈川県横浜市 完成:1927(昭和2)年

ひと息

ホテルニューグランド地図

 大佛次郎やマッカーサーが使った部屋を指定してくる宿泊客が今も絶えないという。大佛や石原裕次郎が愛用したバーも健在。新しくは矢沢永吉やサザンオールスターズなどがホテルのカフェやバーを歌にしている。映画やテレビドラマのロケにも使われた。初代料理長のサリー・ワイルや戦後の総料理長の入江茂忠らが考案したという「シュリンプドリア」「スパゲティナポリタン」「プリン・ア・ラ・モード」など、このホテル発祥のメニューも注文できる。みなとみらい線元町・中華街の駅もすぐで、付近には山下公園、大桟橋、外国人墓地など散歩コースが多い。

港ヨコハマの「迎賓館」 震災復興事業の目玉 市と財界が協力し開業

山下公園通りはおしゃれでエキゾチックな散歩道だ。銀杏(いちょう)並木と瀟洒(しょうしゃ)なクラシックホテルの取りあわせは、これぞ横浜と思わせる風景である。ホテルニューグランドは戦前戦後を通じ、ヨコハマを訪ねる外国人をもてなす迎賓館の役目を果たしてきた。

1870(明治3)年に創業した旧グランドホテルはチューダー様式の豪華ホテルとして隆盛を誇っていた。ところが1923(大正12)年の関東大震災で横浜は中枢部はもとより港沿いの外国人向けホテルも全滅した。瓦礫(がれき)を埋め立てて山下公園ができたほどだ。

横浜市は震災復興予算の中にかなりの優先度で外国人専用ホテルの建設費を計上した。それほどに外国人向け宿泊施設は、生糸輸出などが支えた横浜経済の地盤沈下を防ぐ上で重要だったのだ。

3セクで建設

土地、建物は市が提供、経営は民間が担った。三渓園を造った原富太郎ら横浜財界の有力者が全面的に協力、名称は一般公募し「ホテルニューグランド」とした。今でいう第3セクター方式で、27(昭和2)年に開業した。だからこの名門ホテルは開業から82年経る今も、横浜市に本館の敷地や建物の賃貸料を支払い続けている。

38歳、気鋭の建築家、渡辺仁に設計を任せた。渡辺はその後、上野の東京国立博物館、日比谷の第一生命館、有楽町の日本劇場などを手がけている。

設計書に「細部に東洋的手法を配し、日本の第一印象を付与することに努める」とある。5階建て100室余り、古典主義にアール・デコを加味した近世復興式の建築だ。

2階ロビーは漆喰(しっくい)彫刻の天井や壁、黒光りのするマホガニーの柱、床は青を基調にした絨毯(じゅうたん)。真鍮(しんちゅう)の吊(つ)り燈籠(とうろう)風ライトが柔らかな光を放つ中、地元ブランドの「横浜家具」が並ぶ。

もう1つの売りが料理だった。パリの4つ星ホテルの料理長、当時30歳、「欧州料理界の貴公子」といわれていたサリー・ワイルを招いた。スイス生まれのワイルは20年にわたり厨房(ちゅうぼう)を指揮し、弟子に多くの名料理人を輩出した。

マッカーサーが直行

窓から見る波止場、欧州調の落ち着いた内装や接客にひかれ多くの常連ができた。鎌倉文士の大佛次郎は31(昭和6)年から約10年間、3階の一室を仕事場として使った。開化ものの代表作「霧笛」をはじめ「赤穂浪士」「幻燈」など多くの作品がここで生まれた。

45(昭和20)年8月30日、コーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがその足で直行したのがこのホテルだった。新婚旅行などで宿泊した思い出の宿だった。

昭和天皇の即位式に来日した英国王室グロスター公、野球のベーブ・ルース、俳優のチャールズ・チャップリンなど、宿泊した著名外国人は枚挙にいとまがない。

しかし航空機時代の本格化で港ヨコハマは日本の表玄関の座を国際空港に譲る。石油危機、円高に加えて“横浜ホテル戦争”といわれた内外ホテルの進出ラッシュで、さすがの名門ホテルも苦戦した。一時は由緒ある本館を取り壊す案まで出たという。

起死回生の一打となるのがタワー新館建設と本館の全面改修だった。当時、社長の原範行会長(三渓園の原家4代目当主)が取得済みの隣接地に満を持した投資を断行した。

「本館の格式と伝統を生かしつつ、ヨーロピアンエレガンスの重厚感漂う新館」(原会長)を目指し、91(平成3)年春に18階建てのタワー新館がオープンした。

開業直後は80%を超していた外国人宿泊者の比率も70年代以降低下、今では15%を切った。国内客中心にシフトした老舗ホテルは、開港150年を迎えた横浜の顔として親しまれている。

文・倉田 静也

大正期の旧グランドホテル

横浜開港資料館提供

■大正期の旧グランドホテル

 着色絵葉書に見る旧グランドホテル。前の通りが現在の山下公園通り。すぐ海が迫っている一帯は大震災の瓦礫の埋め立てで山下公園になった。この通りの少し左奥にホテルニューグランドができるが、資本や人的な関係はない。


日本経済新聞 夕刊 2009年4月16日(木) 掲載

探訪余話

ニューグランドを築いた人々

ホテルニューグランドは横浜経済の地盤沈下を危惧する市の政財界、市民あげての支援で開業した。現代なら考えられないが、市の大震災からの復興予算に道路や学校、橋などの再建と並んで、かなり高い優先度で「外国人向けホテルの建設費137万円」の一項目が盛り込まれ、今で言う“第3セクター”方式でスタートしている。

建設のリーダーシップをとったのは震災後に就任した有吉忠一横浜市長。有吉は内務官僚で島根、宮崎、神奈川、兵庫の各県知事、さらには朝鮮総督府政務総監を歴任した後、壊滅した横浜復興の輿望を担い、その履歴からすれば格下とも言える横浜市長に就任した。

就任の際、「市政界の憲政派と政友会は完全に協調すること、市会における市長推薦は満場一致であること」(「ホテルニューグランド五十年史」より)を条件に引き受け、以降、横浜市復興会会長で横浜財界の巨頭であった原富太郎(原三渓)をはじめ平沼亮三、井坂孝(ホテルニューグランドの初代会長)ら政財界の長老、実力者と連携、横浜再興に縦横の手腕を発揮した。

ニューグランドを設計した渡辺仁は当時まだ38歳の新進気鋭の建築家。東京帝国大学工科大学長の渡辺渡の長男に生まれ、本人は東京帝大の建築科を卒業して鉄道省、逓信省に勤務後、独立して設計事務所を開いていた。吉田鋼市・横浜国大大学院工学部教授は「辰野金吾などに代表されるいわゆるアーキテクトの第1世代と丹下健三さんなどが出てくる間の、様式建築からモダニズムへの変わり目の微妙な世代ですが、彼は両方をうまくやった」(「有鄰」第478号より)と位置付ける。

大震災からの復興だっただけに耐震性は最近の検査でも折り紙付きだという。横浜大空襲でも焼け残り、今は「横浜市認定の歴史的建造物」、「経済産業省の近代化産業遺産」に指定されている。

ニューグランドが82年の歴史を刻む事ができたのは、その料理が絶大なる支持を得たことが大きい。開業時の料理長にサリー・ワイル(30歳)というスイス生まれのユダヤ人を招聘した。以来、ワイルは20年にわたりニューグランドの料理を率いたばかりか、日本のホテル料理の歴史にも大きな足跡を残した。

当時のホテルでは当然だった「コース料理を正装して礼儀正しく、ナイフとフォークでかしこまっていただく」という堅苦しい流儀を打ち破り、カジュアルでアラカルトに重点を置いたフランス料理の普及に努めた。

ワイルはホテルや系列のレストランを舞台に延べ何百人といわれる料理人を育て、やがてその中からは日本を代表する名シェフ、名パティシエが輩出した。

ホテルオークラの小野正吉、東京プリンスホテルの木沢武男、大阪東洋ホテルの木村健蔵などだ。大谷長吉のように師の名前をそのまま店名の「エスワイル」に使って東京でフランス菓子専門店を開いたパティシエもいる。

今では帝国ホテル系、神戸オリエンタル系と並び横浜ニューグランド系がホテル料理人系譜の3大源流とされる。ワイルは戦時中、外国人を集めた軽井沢で軟禁状態に置かれ、戦後、失意のうちに母国スイスのベルンに帰って行った。

しかし帰国後も日本から留学する料理人たちの世話を焼き“スイスパパ”と親しまれ、多数の弟子達が昭和31年と昭和45年(大阪万博)に日本に招いて恩返しをしたという。政府は1973(昭和48)年にワイルに勲五等瑞宝章を贈っている。

料理ではもう1人、戦後の総料理長の入江茂忠が有名だ。ワイルの直弟子だったが、ワイルのスイス式フランス料理を戦後、純正フランス料理に仕上げた人物とされる。「東京にない料理を作る」というのが信念で、お客のいかなる注文にも応えたという。

今のホテル業界では800室、1000室の大型ホテルがざらだが、ホテルが巨大化すればするほど料理は半製品(加工食品など)に頼らざるを得なくなり、「手作り」からは離れていく。入江はワイルからの伝統も踏まえ、極力、上質な食材から手間と時間をかけて手作りするというポリシーを定着させ、これが長い眼で見るとニューグランドの武器になった。入江はテレビ放送黎明期に「味覚のしおり」(日本テレビ)を6年にわたり担当し、以後の料理番組のお手本になった。

ヒットラーからの勲章も

経営者では初代会長の井坂孝(横浜商工会議所会頭)を継いで昭和13年に会長に就任した野村洋三が異彩を放つ。岐阜県出身、14歳で京都に出奔、海外へ行く夢をかなえるために名前も洋三と改めて米国に渡った。その後、両国の懸け橋になろうと横浜で古美術商「サムライ商会」を開く。

同じ岐阜出身の原富太郎(原三渓)とも親交を結び、横浜復興事業などで協力した。そして昭和13年にニューグランドの会長を引き受け、北京グランドホテルの買収なども決めるが、戦局の悪化による食材や資材さらには人材の不足などに苦しむ。

横浜港で昭和17年11月に死者102名を出したドイツ軍艦など4隻の大爆発事故が起きる。事故で死傷したドイツの将校や水兵たちがニューグランドに宿泊していたことから、ホテルは救護などに全力を挙げた。これに対し、ヒットラー総統から野村会長宛てに感謝の勲章が届き、今も残るが、当時、事故は軍事機密とされたこともあり意外に知られていない。

日本に進駐してきた連合国軍最高司令官マッカーサーを迎えたのも野村だ。臆することなく日本や横浜の食糧の窮状を訴え、これにマッカーサーは食糧の放出で応えた。しかしホテルは戦後の7年間、進駐軍の高級将校の宿舎として接収され、ホテル前の山下公園にも将校住宅が立ち並ぶなど、苦難の時期の会長を務めた。

会長時代の野村は毎朝、ホテルの宿泊客に対してにこやかに挨拶、握手して回ったことからニックネームが「ミスタァシェイクハンド」。昭和40年に95歳で亡くなったが、アメリカの新聞にまで追悼記事が載ったという。

そしてニューグランドの「タワー新館時代」を開いたのが現会長の原範行だ。原は外交官の子弟で日産自動車のエンジニア出身。原富太郎(原三渓)から3代目の原家当主(女婿)である。

1980年代初め、苦戦気味のニューグランド社長に就任した。原は市民や政、経済界のバックアップを得るための「友の会」を組織するなど客層の国内シフトを推進、経営基盤を安定させ、「伝統と格式の本館」に隣接して「新時代に対応した新館タワー棟」を完成させた。これを足場に内外有力ホテルの横浜進出ラッシュにも対抗した。

原はペリー提督の横浜上陸から150年目の2005年5月、米国からペリー提督の6代目のフレデリック・ニコルズさんら子孫一行20名をホテルに迎えた。

子孫たちはニューグランドの宴会場「ペリー来航の間」に飾られた「ペリー提督・将兵横浜上陸の図」(ペリー艦隊の随行画家ハイネが制作した石版画で原三渓が所蔵していた。現在、原画は横浜美術館に寄贈)の拡大複製画に対面、「こんなものが横浜に残っていたのか」と感慨深げだったという。

こうして82年の歴史を見ると色々な人生や歴史を背負った人物が次々と登場し活躍、さながら映画「グランドホテル」の群像劇を地で行ったかのようにもみえる。

文・倉田 静也

昭和2年12月1日のホテル開業日の玄関前

アールデコ調の2階ロビーへの階段はイタリア製亀甲タイル

コック達に囲まれたサリー・ワイル料理長

ミスタァシェイクハンドの2代目会長の野村洋三

ホテル内のバーでくつろぐ大佛次郎

(写真はホテルニューグランド提供)