明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

1999(平成11)年、農業土木遺産として国の指定重要文化財に(写真・長田 浩)

所在地:大分県竹田市 完成:1938(昭和13)年

ひと息

白水溜池堰堤地図

 白水ダムは城下町竹田から車で30分ほど。竹田は滝廉太郎の「荒城の月」のモチーフとなった岡城跡で知られる。地元の味に、江戸後期にこの町で生まれ育った南画家、田能村竹田が愛し、広めたといわれる「竹田田楽」がある。
 水切りした豆腐を串(くし)に刺し、味噌(みそ)をつけながら炭火で焼いていただく。かつて地元の人々は田楽火鉢を使って、食を楽しんだ。しかし、昭和30年代、高度成長とともに田楽火鉢が姿を消し、竹田田楽も消えた。10年前、「地産地消」の掛け声で、竹田田楽が復活。火鉢、焼きに使う竹串、食材に地元産が並ぶ。城下町竹田を思い起こす「ニュー竹田田楽」である。

若き技師が創意で設計 棚田潤す「ダムの貴婦人」 豊後石工の技を駆使

息をのむほど見事な水の造形美である。それは熊本・宮崎両県に境を接する大分県南西部の人里離れた山あいにあった。高さ14メートル、長さ87メートルの堰堤(えんてい)を地元では「白水ダム」と呼ぶ。

溜池(ためいけ)を満たした水は、白い泡となって滑るように堤を乗り越え流れ落ちていく。転波が織りなす模様はさながら絹のレースを一面に広げたかのようだ。

この水利施設は、30代の土木技術者が創意工夫で造り出した。自然環境と対話しながら地質と水流を考え、流水を弱める独特な形状の堰堤をデザイン、地元石工の伝統技能を結集した。

一帯が阿蘇溶岩質の脆弱(ぜいじゃく)な岩盤のため、4年半もかかった難工事だった。1938(昭和13)年に農業向け水利施設として完成、水流美からダムの貴婦人とも芸術品ともいわれ、訪れる人々を魅了する。

美堰堤、日本一

阿蘇外輪山や祖母山を源流とする大野川上流の大谷川に白水ダムは築かれた。設計・監督を手掛けたのが、大分県土木技手(のちに土木技師)の小野安夫。

1903(明治36)年に大分県東飯田村(現在の九重(ここのえ)町)に生まれた。地元の農学校を卒業、大分県庁に就職、東京農大などの国内留学で専門家として研鑽(けんさん)を積む。

技手として大野川流域の農業用水路事業にかかわり、これが縁で新たな水源確保のための白水ダム建設を担当することになる。1932(昭和7)年、地質調査を開始するが、脆弱な地盤が難問だった。

完成した堰堤の形は、越流堤の直線以外は、曲線、曲面だ。小野はダム下流の地盤の弱さを補うため、堰堤に水の勢いを分散させるきわめて独創的な工夫を施した。

下流から見る右側(左岸)は、円盤が階段状(カスケード)に広がる曲線を描き、左側(右岸)は堤本体と同じ高さに反り返る曲線で、熊本城「武者返し」の石垣を思わせ男性的だ。

左岸の水は階段状を上段から下段へと流れ落ち、まるでロングドレスのひだ模様に見える。一方、右岸はダイナミックな円弧を描き、中央に向かって末広がりに流れる。左右の水流が中央の水流を弱める仕組みだ。

堰堤内部は近くの山から切り出した石を積み上げた。堤の表面は全体に瓦状の石を丁寧に張り巡らせる。コンクリート主体の近代堰堤建設では例を見ないやり方を採り入れた。

現場に寝泊まりした小野は、地元で古くから石橋施工の実績を持つ豊後石工の協力で難工事を乗り切った。小野は35歳になっていた。

「美堰堤、日本一」と白水ダムを紹介した伊東孝日大理工学部教授は、「ダムの形と流水の性状を知り尽くした者のみができる『用・強・美』の設計思想が具現化されている」と指摘する。

水源の切り札

農業用水の安定確保は近代になっても地域の切実な課題だった。大谷川流域は、山間部にあって古来水利に恵まれず畑作がほとんど。稲作は天水と湧水(ゆうすい)のある場所に限られていた。江戸末期の大干ばつをきっかけに農業用水路の開削への取り組みが始まり、ようやく1907(明治40)年に富士緒井路(ふじおいろ)水利組合が設立、14(大正3)年に幹線が完成、通水にこぎつけた。

しかし、水路の破損に溶岩質や火山灰土壌による激しい漏水が重なり故障が続いた。そこで白水ダム計画が浮上した。計画から7年、幹線用水路取水口の上流1.3キロにダムは完成した。

現在、貯水量60万トンの白水ダムで350ヘクタールの水田が潤い、その大部分が棚田だ。だが、減反や高齢化などで作付面積が減った。ダム特有の土砂堆積問題も抱える。一方で近年、観光スポットとして注目されるようになった。白水ダムは新しい時代を迎えている。

文・宮内 章好

手づくりのダム

河野敦子さん提供

■手づくりのダム

 小野技師の次女河野敦子さんは、「父は晩年、白水ダム建設現場の写真帳をよく開いていました」と語る。そのうちの1枚で、堤内部は切り石が手で積まれ、表面は木枠で滑らかな曲線を描くように整えられている。


日本経済新聞 夕刊 2009年4月9日(木) 掲載

探訪余話

農業土木技術の粋

「白水ダム」の存在を全国的に広めた日本大学の伊東孝教授は、最初に訪れた20年前を振り返ってこう言う。「ダムに行き着けるかと思うほどわかりにくかった。農道が途切れると、道は益々狭くなり、林道のようになる。この先にダムがあるとは、とても思えなかった。それだけに坂道を下ったところに大きな池が見え、やがて視野が大きく開け、ダムを越す水の姿があった時には意表をつかれた思いだった。流れ落ちる“白水”は、ダムの名に相応しかった」

竹田市街地から白水ダムへの山道は、今もわかりにくい。ダム周辺は、おおむね建設当時のまま残されている。ダムのそばに立つ「歴史と文化を考える会」の案内板には、「設計者と豊後石工の英知と苦労、それにもまして芸術性を取り込んだ美的センスには頭の下がる思いがします」と記されている。

昭和10年代のわが国は、昭和恐慌から脱出したとはいえ、戦時経済に向かう時代だった。地方の農業用ダム建設には経費節減が求められた。設計者で監督の小野安夫は周辺で採れる阿蘇溶結凝灰岩に目をつけ、下層部の固い部分を切石として使用、高価なコンクリートの使用量を極力絞り込んだ。身近にある建設資材を最大限に利用した。

堤体の内部は、直方体の切石を積み上げ、それを型枠代わりにして、上流側にコンクリートを打ち込んだ。下流の堤体部では、水が流れ落ちる曲面部の切石を積み上げたあと、内部に切石を積み上げた。堰堤全体の表面には目の粗い切石を貼りつけ、溢れ出る水が水泡となって、その勢いが減殺されることを狙った。

100人にのぼる工事現場は、ひとつの村のようだった。工事用の機材やセメントなどは近くの寺院からケーブルカーを使い運搬し、切石はトロッコで運び込んだ。山間のこの一帯の冬はおよそ南国九州とは思えない厳寒の地。それだけに冬季の工事は大変な苦労だった。

本格工事は1935(昭和10)年春に始まったが、翌年の冬は急激な低温のためコンクリートが固まるのに時間がかかり、予定の2割しか進まなかったという。計画より半年遅れて1938(昭和13)年、白水ダムは完成をみる。

築後70年経った今、堤体自身の漏水は見られず、補強工事の必要もないまま、竣工当時の姿を保っている。環境風土を見すえ、豊後石工の技術を駆使して完成にこぎつけた小野技師の卓越した設計のおかげだろう。

建設記録写真

小野技師は1993(平成5)年、91歳で亡くなる。生前、「娘2人とダムを見に行きたい」と語っていたが、実現しないまま世を去った。長女、小野貴美恵さんと次女、河野敦子さんは、翌年の94年5月、現地を訪れ、亡き父が造った「白水ダム」を初めて見たという。

「父は生前、仕事のことはほとんど口にしませんでした。現地を訪れて初めて、本当に美しいダムを父は造ったことが実感できました」と当時を思い浮かべる河野さん。手許には、父が残してくれた建設当時の100枚を超える写真や国内留学時に使った土木関係の教科書、手紙・葉書などがある。

小野技師は出来上がっていく白水ダムを撮影した。以前から富士緒井路に関わっており、この地方特有の阿蘇溶岩質の脆さや火山灰質の保水力のなさを痛いほど知っていた。それだけに難しいといわれた大野川上流でのダム建設にかける決意は並大抵ではなかったといえる。

将来白水ダムになる大谷川の堰き止め工事から、完成直前の様子まで、そして建設現場でパイプを加えた蝶ネクタイ、帽子姿の30代小野技師を中心に大勢の工事関係者が集まった写真など、昭和10年代当時の建設現場を今に残す貴重な記録だ。

農業土木の権威で、白水ダムの建設予定地の地質調査に携わった田町正譽九州帝大農学部教授(当時)が、白水ダムの完成を受けて、大分県経済部耕地課長に宛てた手紙が残っている。その中で、「小野君の非凡な才能と献身的努力の賜物と存じ絶賛の辞を惜しまざる次第に有り」という。白水ダム建設の手腕は、中央にも伝わる。5年後の40歳当時、本省から引き抜きの動きがあった。これを知った大分県は、技師に特進させ、引き留めたといわれる。

白水ダムが国の重要文化財に指定されたのは、小野技師が亡くなって6年経った1999(平成11)年のことである。河野さんは「後世に残る白水ダムは、やさしかった父とともにあります」と語っている。

試練の連続、水路建設

白水ダムを水源とする農業用水路「富士緒井路」は、幹線の全長15キロ。支線を含めると45キロに達する。「大分県における有数の農業用水路のひとつで、隧道(トンネル)が全体の7割と高いうえ、2ヵ所の水力発電所を持つのが特徴。富士緒井路を開削し、最終的には白水ダムが完成するまで、農家の人々は眼下の川の流れを恨めしげに眺めるだけだった」と、大分県農林水産部の加藤正明主幹は説明する。

「富士緒井路」開削・通水までの歴史は、試練の連続だった。幕末の1867(慶応3)年の6月、大野川流域のこの地区は、日照りによる大凶作に見舞われ、農作物を安定してつくることができる用水路開削の動きが出る。しかし、手に余る大事業で計画は中止。その後、計画は持ち上がるが、資金面で頓挫した。1898(明治31)年には水利組合設置までこぎつけたが、県の許可が下りず、またも断念。

1907(明治40)年、小富士村の富士と緒方村の緒の名前をとって「富士緒井路開削事業」と名づけ、取り組みを再開、ようやく1909(明治42)年に水利組合設立が許可、翌年に工事許可を得た。だが、起工式の段取りまで決めた中、水源付近の水利権に絡む金額をめぐって隣接村との対立が表面化する。

開削工事が始まってからも、問題が噴出する。他の組合が富士緒井路の取水口の上流に取水口をつくる動きや富士緒井路自体が火山灰土のため非常にもろく、崩落や落盤が相次いだ。復旧のための負担に耐え切れず、村を去る農民も出たという。

1914(大正3)年、念願の通水。しかし、本格通水の前日、大雨で箱樋が壊れ、延期となる。さらにその後も隧道の崩落が相次ぎ、開田は予定通り進まないうえ、開田した田の稲の作付けが終わったのが8月という状況だった。このような状況から財政も逼迫、「富士緒井路耕地整理組合」設立で窮状打開を図る。1922(大正11)年のことである。

その後、幹線水路の改修、開田など耕地整理組合による取り組みは順調に進んだが、24年7月、大減水に見舞われた。近隣組合が上流に堰を造ったのが原因だったという。このため県は新たに大谷ダム築造計画を打ち出したが、慢性的な水不足の抜本的な解決にならなかった。このような中で、白水ダムの建設が具体化する。

この間、1914(大正3)年に、台地への揚水のため、農水路の用水を利用した発電所が完成。さらに戦後になって水路の改修工事資金がかさみ、農家が負担する賦課金の軽減を目指して、84(昭和59)年に第2発電所が完成し、その売電益が富士緒井路改良区の運営に役立っているという。

「水は農家の魂なり」を肌で感じるそばで、白水ダムを管理する後藤良治同土地改良区理事長はこう語った。「取り巻く環境が変わろうとも、白水ダムを往時の姿のままいつまでも残していきたい」

文・宮内 章好

右岸は武者返し

現場の小野技師(河野敦子さん提供)

白水ダムからの水は取水口へ

眼下に広がる棚田

用水を発電向けにも利用