明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

明治、大正、昭和と火を燃やし続けた高炉は史跡として保存されている(写真・三島 叡)

所在地:福岡県北九州市 完成:1901(明治34)年

ひと息

東田第1高炉史跡広場地図

 製鉄施設の移転により、創業の地、東田地区120ヘクタールは再開発が進み、1990年4月にはその一角に「スペースワールド」が開業した。
 敷地面積24ヘクタールに20の施設を擁し、33のアトラクションを提供する。宇宙など先端技術のテーマパークだ。園内にある高速ジェットコースターが走り抜けるたびに、乗客の歓声が、100メートル離れたところにある東田第1高炉のモニュメントまで響く。この産業遺産は現在、北九州市が管理するが、隣接して「いのちのたび博物館」「北九州イノベーションギャラリー」といった施設があり、近代産業の変遷を体験できる。

寒村に巨大な溶鉱炉 二十世紀幕開け飾る 産軍近代化の基に

九州北部の洞海湾に面した八幡村は、戸数約350、人口1200余のうらぶれた漁村だった。そんな寒村が一躍、製鉄業の拠点に変貌(へんぼう)する節目は、1897(明治30)年にやってきた。

「鉄は国家なり」。富国強兵、殖産興業を掲げた明治政府が、国家事業として製鉄所の建設方針を決めたのは、日清戦争の終結間近の95年のこと。その2年後、広島や下関といった建設候補地の中から、八幡村が選ばれた。陸海の輸送などの立地条件に加え、背後に筑豊炭田を控えていたのが大きな要因だった。

高給で多数のドイツ人技師を雇い、急ピッチで建設を進めた。八幡村の東田(ひがしだ)地区に、高さ30メートルの巨大な溶鉱炉がその威容を現し、20世紀幕開けの1901年2月5日、点火式を迎えた。「午前11時、カンナくずに火を付けて消えないように息を吹きかけながら急いで羽口(はぐち)から投げこんだ」と『八幡製鉄所百年史』は歴史的瞬間を記す。翌日夕刻には1トン余の赤い銑鉄がほとばしり出た。11月には皇族や政府高官らを招いて盛大な作業開始式も挙行した。

度重なる休止

だがそんな祝賀気分はたちまち消え去った。除塵機中のガス爆発や熱風を溶鉱炉内に送る羽口の不調などトラブルが相次ぎ、翌夏には休止に追い込まれた。03年4月に再度火入れするが、17日間でまた操業停止に。政府は製鉄所長官や初代技監を更迭、当初計画の立案者で冶金学の権威、野呂景義を顧問技師に起用した。日露戦争が不可避という緊迫した情勢下で鉄鋼生産が急務だった。

特命を受けた野呂はかねての持論に沿い、溶鉱炉の構造上の欠陥、コークスなど原材料の調合不良など失敗の原因を究明、改善を図った。3回目の火入れは7月。野呂の指導が実り、順調に稼働。これ以降、1910年6月まで2000日以上も銑鉄を生産し続けた。

立ち上げ時期に多くのトラブルに見舞われたとはいえ、八幡・東田第一高炉の火は、20世紀の産軍近代化の幕開けを告げる烽火(のろし)となった。

戦艦の建造など軍事的要請に応えつつも、“産業のコメ”として、機械、建設、電気、自動車など幅広い産業や国民生活に資材を供給し、金属工業や窯業を生むなどの役割を演じてきた。

この東田第1高炉はその後も9次にわたり改修を重ね、62(昭和37)年には高さ70メートルの新鋭炉となった。しかし製鉄所の主力機能が隣接する戸畑地区に移行するのに伴い、10代目の役割は72年に終え、東田の高炉の火も消えた。

近代技術の粋を結集した製鉄業だが、現場で働く職工の存在も大きい。八幡では経験と勘に裏打ちされた優れた技能の持ち主を終身、「宿老(しゅくろう)」という制度で遇した。第1号は20(大正9)年に認定された田中熊吉だ。製鉄所の立ち上げを全身で担い、「高炉の神様」の異名を持つ人物だ。宿老は46年の山岡熊雄まで7人いたが、72年に98歳で田中が死去したのを機にこの制度は終わった。コンピューター化など高度に管理されたシステムが取って代わったからだ。

戦後復興支える

官営でスタートした八幡製鉄所は、34(昭和9)年に他の製鉄所と合同、民営の日本製鉄に衣替えした。戦争中、各地の製鉄所が空襲を受け、戦後、国内で残り稼働できた高炉は全国37基中、八幡の3基だけ。これが戦後の復興を支えた。

50年にはその日本製鉄が解体され八幡製鉄所など4社に。そして国際競争が激化する70年、分割された富士製鉄と合併し、新日本製鉄として再発足した。

八幡製鉄所は100年余、国家や産業の浮沈、興亡を体現してきた。高炉誕生の年すなわち世紀元年「1901」を記した看板を掲げるこの高炉は、20世紀日本を象徴するモニュメントである。

文・今井 亮平

鉄は国家なり

新日本製鉄提供

■鉄は国家なり

 国家挙げての事業だけに、1900年には建設中の東田第1高炉を、伊藤博文総理も視察した。足場のかかる高炉を背景に撮った記念写真。


日本経済新聞 夕刊 2009年4月2日(木) 掲載

探訪余話

巨大工場の遺産

現存する東田第一高炉は1962(昭和37)年、日本初の超高圧炉に改修された。その後、老巧化し解体されるところを北九州市が文化財として保存を決め、公開されている。高炉の名にふさわしく見上げるような巨体である。

製鉄業は巨大なエネルギー多消費型産業だ。銑鉄1トンを作り出すのに、鉄鉱石1.6トン、石炭を4トンも使うと言われる。

さらに圧延時の冷却や酸化鉄の洗浄などで鉄鋼1トン当たり200トンの水が必要。9割以上を循環させて使用するが、調達すべき水量は莫大だ。

創業時の八幡製鉄所でも水の確保が大きな課題だった。操業が軌道に乗り、1917(大正6)年から始まった第3次拡張計画の一環で、増加する一方の工業用水をまかなおうと、本格的な貯水池建設が計画された。

製鉄所から南へ6キロほどの山あい、板櫃(いたびつ)川の上流をせき止めて作った河内貯水池だ。工事は当時土木課長だった沼田尚徳が指揮を取り、完成までに8年の歳月がかかった。

沼田は堅牢性とともに美観を重視し、管理事務所や取水塔はヨーロッパの古城風にデザインした。通称「めがね橋」と呼ばれる南河内橋もその一例で、鉄製の66メートルの変形した楕円形を2つつなぎ合わせたユニークなデザイン。資材はもちろん八幡製鉄所でできた鋼鉄だった。

貯水池周辺は近在の住民の散歩コースとなっており、週末ともなると釣り糸を垂れる人も多い。

鉄鋼業の現場で働く人にとって、重量物を扱い、激しい暑さの中での作業など労働環境は厳しいうえ、新しい知識も求められた。そんな人材を確保するため、創業して間もない1910年に「幼年職工養成所」を設けた。

高等小学校卒業者を対象に、給与を支給しながら、勉強し、実務を教える3年制の養成施設だ。前半は一般教養、後半は製銑など3分科の専門技術、工場実習といったカリキュラム。初年度は66人が入所した。卒業生は6年間、製鉄所が指定した業務に携わることが義務付けられていた。

人手確保のためにも、福利厚生には早くから手を付けている。官営の製鉄所は、上級職員用に「高見倶楽部」、一般職員用に「門田会館」というように、官僚組織等級別にならった施設を整えていた。

そして職工専用のクラブとして、1927年にできたのが、工場から2キロほどの高台にある大谷会館だ。鉄筋コンクリート作り、地上2階、地下1階、総面積3800平方メートルの規模。外壁は自社製の鉱滓レンガをあしらい、流行の最先端をいく左右対称の設計だ。

中には娯楽室、理髪室、パーマ室、浴場、食堂、売店などがそろい、職工たちは恵まれた施設内で飲食や娯楽で余暇を過ごした。

戦後、身分制の廃止とともに大谷会館も他の施設と同様に全従業員に解放され、さらに一般市民も利用できるようになった。

1985年からは運営を地元の不動産・会館運営会社に委託、宴会や結婚式会場として活用されている。受託会社「芳賀」の芳賀久典社長は大学を卒業後5年間、八幡製鉄、新日本製鉄に勤務した経験があり、さらに曾祖父は100年以上も前、八幡村の村長で、製鉄所の誘致に奔走した人物。見えざる糸で結ばれているような関係だ。

かつての近代製鉄発祥の地は、重厚長大な鉄鋼産業とは違った街に変容しつつある。その中心は、宇宙テーマパークの「スペースワールド」だ。米国の財団との間でライセンス契約を結んで開業したもので、地元だけでなく本州方面や韓国などからも訪れる人が多い。

スペースワールドに隣接して、巨大なショッピングセンターも開業している。かつては重厚長大産業の象徴でもあったこの一帯は「いのちのたび博物館」といった文化施設とともに、情報、娯楽、文化ゾーンに衣替えしようとしている。

文・今井 亮平

高炉の威容

河内貯水池にかかるめがね橋

モダンな建物だった大谷会館

製鉄所の跡はテーマパークに変身