影の主役・グラバー
長崎有数の観光名所・グラバー園の展望台に立つと、約1キロを隔てた長崎港の対岸(西方向)に三菱重工長崎造船所のドックや工場が2キロに渡って続いている。その一角に幕府の「長崎溶鉄所」(後の長崎製鉄所、現在の長崎造船所)が出来たのは1857(安政4)年。そのころ長崎港の東岸(グラバー園側)は外国人居留地になり始めていた。
英国スコットランド生まれのトーマス・グラバーが長崎にやって来たのは1859年、21歳のときであった。英国人の経営する商社に2年勤務した後、23歳で独立、グラバー商会を設立する。当初の主な業務は英国への日本茶輸出だったが、幕末の国内情勢に目をつけ、戦艦や武器を輸入し、薩長土肥など各藩への売りさばきを始めた。居留地にグラバー邸を建設したのは、商会設立後、3年のことである。
グラバーは薩長などの勤皇勢力と交流、坂本竜馬ら倒幕の志士を支援し、明治維新への動きに影響力を示すが、その背後にはもちろん大きな取引が控えていた。そのグラバーと最も深い関係を持った人物の1人が薩摩藩の家老・小松帯刀だった。彼は坂本竜馬をグラバーに紹介したほか、伊藤博文、井上馨ら長州藩士5人の英国留学、五代才助ら薩摩藩士15人の欧州視察をグラバーとともに画策している。
グラバーと小松はグラバー邸内の高台に立って長崎港を見下ろし、小菅修船場の建設を語り合ったに違いない。左手に見おろす小菅浦はかつて大村藩の領地だったが、居留地建設の関係で天領になっていた。「あそこなら修船場を作れるだろう」。そういう結論になったのではないだろうか。
五代ら薩摩藩士は1865年に欧州視察へ出発、この旅行中にフランスの貿易商社と修船場建設を取り決めている。帰国後の67年、ただちに工事に入ったことからして、欧州視察は修船場建設の交渉や下準備が目的だったのだろう。五代らに指令を出したのは明らかに小松で、グラバーが影の主役になっていたはずである。
グラバーは武器商人として暗躍した面はあるが、日本の文明開化にも大きく寄与している。1865年(慶應元)年、長崎・大浦に400メートルのレールを敷き、上海から輸入した蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせた。これが日本で初めて走った蒸気機関車で、新橋−横浜間に日本初の鉄道が開設される7年前のことである。
日本初の西欧式ドック・小菅修船場を造った68(明治元)年には、長崎半島西海岸沖の高島に、欧州の近代設備による高島炭鉱を開いた。これはグラバー商会と佐賀藩との共同経営で、日本と外国による初の合弁企業となった。
やがて日本の内乱は終息に向っていく。戦艦や武器によって大きな利益を得ていたグラバー商会は苦境に陥り、70年に破産してしまう(同年、小松帯刀死去)。ところがグラバーはなかなかしぶとく、高島炭鉱を三菱社に売却したのをきっかけに、同社とのつながりを作っていった。81年から三菱の傘下に入り、85年にはビール会社、ジャパン・ブルワリーの設立に参加、88年にはキリンビールの第一号を世に出している。
ビジネスに経験豊富で、西欧事情にも通じているグラバーは、三菱社内で頼りにされるようになっていく。やがて三菱の総帥・岩崎弥太郎、弥之助兄弟の信頼を獲得し、2人の相談相手になって、93(明治24)年には三菱の終身顧問という立場に就いた。
グラバーが亡くなったのは明治末の1911年。グラバー邸は、日本人の妻ツルとの間に生れた倉島富三郎が継ぐが、39(昭和14)年から三菱の所有となった。三菱が買い取った理由はグラバー邸から対岸の造船所が丸見えになってしまうためで、戦艦「武蔵」の建造が始まっていた造船所にとって、秘密保持が欠かせなかったのだ。
以来、グラバー邸は三菱が管理していたが、長崎溶鉄所設立から100年目の57年に長崎市に寄贈、今日に至っている。公園となったグラバー邸内には、三菱の第2ドックハウス(ドック入りした船の船員の宿泊施設)や外国人住宅など8棟が移築された。このうちの外国人住宅2棟が、グラバー邸とともに国の重要文化財になっている。
文・今泉 恂之介
グラバー園から見た長崎造船所
グラバーの胸像
グラバー邸
ジャパンブルワリー(キリンビール)のラベル。左が最初のもの(グラバー邸の展示)
旧三菱ドックハウス





