明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

合資会社後藤が戦後に建造した木造の工場は今も現役(写真・三島 叡)

所在地:群馬県桐生市 完成:1951(昭和26)年

ひと息

合資会社 後藤地図

 桐生有鄰館は、本町通りの天満宮の近くにあるかつての豪商、矢野家の蔵。煉瓦蔵、味噌蔵、塩蔵など8つの蔵からなる。一部は今でも店舗として使われているが、あとは一般の人が自由に見学できる。内部は広々として天井が高い蔵が多く、展示、演劇、コンサートなどのパフォーマンスの会場になる。
 西の端のビール蔵にはからくり人形館もあり、忠臣蔵などからくり人形劇の舞台や人形が見られる。近江商人だった初代矢野久左衛門が1749(寛延2)年に当地に店舗を構えて以来の建物群で、煉瓦造りや木造で1890(明治23)年以前に建てられたものが多く、市の指定文化財になった。

近代織物工場の原型 北側採光で色合い管理 多様な転用で町おこし

西の西陣、東の桐生。群馬県桐生市は絹織物の町として栄えた。JR両毛線桐生駅の北東、桐生天満宮へ続く本町通り周辺にギザギザの三角屋根、通称「ノコギリ屋根」の工場が散在している。

その1つ「合資会社後藤」は1870(明治3)年の創業。昔の庄屋(しょうや)などによくある立派な門を抜けると創業時に建った母屋。その横手に3連のノコギリ屋根のある木造の絹織物工場がある。紋織物の老舗で今でも「七五三帯」を中心に丸帯や袋帯を生産している。

北側の屋根に付けられた天窓から柔らかい光が差し込み、天井が高く、三角形の木組みの梁(はり)が今はやりの古民家を思わせる。

「この光が紋織物の色合いをチェックするには最適なんです」と4代目当主の後藤隆造さん(桐生織物協同組合理事長)。縦糸と横糸が見事な模様を作り出していく。工場と母屋、女子寮、大きな蔵に凝った造りの庭は、かつての桐生の織元の定番という。ここに女子寮こそもうないが、築山のある庭は往時の隆盛をしのばせる。

地図の工場マーク

昔の地図では工場のあるところには三角の屋根と煙突が描かれていた。ノコギリ屋根は近代工場の象徴ともいえる存在だった。もともとは産業革命当時の英国で、織物工場として考案された屋根構造で、日本では明治10年代末に使われ始めた。

屋根の北側に向いた斜面にガラスの天窓が付いている。北からの採光で1日を通して均一の明かりを取り入れ、織物の色合いを見るのに適している。また、天井が高いので、当時普及したジャカード織機を使うためのモーターのシャフトを取り付ける空間を確保しやすい。「連」とも呼ばれる三角屋根をつなげれば自由に増築していくことができる。これがノコギリ屋根が流行した理由のようだ。ほとんどが木造だが、煉瓦(れんが)造り、大谷石などのものもある。

桐生でノコギリ屋根工場が増えたのは大正時代からで、今でもこの時代に造られた工場が18棟ぐらい残っている。唯一、木骨煉瓦造りのノコギリ屋根工場である金芳織物(現金谷レース工業)は大正8(1919)年の建築だ。工場が最も多く建ったのは戦前の昭和前期。戦後も、糸へん景気などがあり建造が続いた。

しかし、中国や韓国の追い上げで日本の織物工業は衰退、昭和35(1960)年以降、ノコギリ屋根工場はどんどん減った。冷暖房効率が悪いことや、屋根の溝部分のメンテナンスが厄介なことも理由だった。市内には現在、約260棟が残っているが、そのうち創業当時のまま工場などに使われているのは4分の1程度で、後は倉庫や住宅、レストラン、アトリエ、工房、卓球場などに転用されている。

10年以上にわたって、日本だけでなく英国など海外も含めてノコギリ屋根工場の写真を撮り続けている建築写真家・吉田敬子さんは「ノコギリ屋根は1つひとつが微妙に違っていて、奥深い魅力がある。日本の近代産業遺産としてぜひ残してほしい」という。

町おこしの起爆剤に

自宅のノコギリ屋根工場を創作家に提供、「無鄰館(むりんかん)」と名づけ、町おこしに取り組んでいるのが、旧北川織物工場の北川紘一郎館長。「アーティストたちに世界に発信してもらう」と意気込む。

金谷レース工業はノコギリ屋根の広い空間と煉瓦の外壁を生かし、「ベーカリーレンガ」の名前でレストランとして復活した。森秀織物は織物参考館「紫(ゆかり)」となり、桐生の織物の歴史を展示、機織りの体験もできる。

市や商工会議所も各種のイベントやセミナーを開催、ゆくゆくは世界遺産登録をねらっている。昨年12月の「ノコギリ屋根博覧会」には2日間で1500人が集まるなど確かな手ごたえを感じている。

文・野々村 泰彦

20連の大工場

『桐生織物史』(桐生織物協同組合発行)より

■20連の大工場

 現在残っているノコギリ屋根工場は大きくても5、6連程度の中小工場がほとんどだが、明治・大正ころには20連もあるノコギリ屋根工場もあった。写真は明治41(1908)年竣工(しゅんこう)の両毛整織の工場。戦中に第二精工舎に買収され、戦後取り壊された。


日本経済新聞 夕刊 2008年3月5日(木) 掲載

探訪余話

「白瀧姫」伝説

そもそも、桐生に織物工業が起こったのは一体いつからだろうか。

伝説によると今から1300年前、当時上野国山田郡(今の群馬県桐生市川内町)の山田という男子が朝廷につかえていた時に「白瀧姫」と呼ばれる官女に恋をして結ばれ、賦役を終えて後に故郷に連れ帰ったと。この白滝姫が村民に都で覚えた養蚕、機織りの技術を教えたのが、始まりという。

東大寺献物帳によると714(和銅7)年に上野の国が「あしぎぬ」を織って朝廷に献上したという記録がある。天下分け目の関ヶ原の合戦の際、徳川家康の旗布にも使われ、一躍世に知られるようになったそうだ。

このときは1日で2410疋(ひき)を織ったことから、当時から少なくとも2410台の織機があったと推定されている。江戸時代後期の1738年ごろ西陣から腰掛けて織れる高機(たかはた)が導入され、紗綾織(さやおり)の技術ももたらされ高度な織物ができるようになり、織物の町としての桐生が発展したという。

桐生市の本町通りの西側にある桐生織物記念館の資料やビデオ、本町通り東側の織物参考館「紫」(ゆかり)の展示を見るとこうした桐生の織物の歴史がよくわかり、面白い。同記念館は1934(昭和9)年に桐生織物同業組合の事務所として建てられた。大いに栄えていた当時の桐生の力を示すようにレンガ造りのどっしりとした建物で、平成9年に国の登録有形文化財に指定されている。

「ゆかり」は森秀織物というノコギリ屋根織物工場をそっくり活用した展示館で、そもそも繭(まゆ)からどうやって生糸を取るかから始まり、最終の織物になるまでの工程がよくわかる。日本でも最大級といわれる高機や、今も生産を続けている現場も見られ、地元だけではなく近在の小中学生の格好の勉強の場だ。

懐かしい街並み

桐生織物の中心地の本町通り付近は、江戸時代初めには荒戸新町、のちに桐生新町と言われていた。徳川家康の直轄地を治めていた代官、大久保長安の手代、大野八右衛門が未開拓だった土地を切り開いた。

今の桐生天満宮から一直線の道の両側に町屋を配するという当時としては珍しい街づくりをしたという。この地域は今でも、かつて隆盛を誇った機屋街の面影を強く残し、大きな母屋に、蔵、見事な庭を持った織物工場の跡がいくつも見られる古い街並みが懐かしさをそそる。

そして桐生天満宮の奥には現在群馬大学の工学部があるが、そこの同窓記念会館の講堂は大正のはじめに作られたゴシックスタイルのモダンな教会のような建物で、織機や織物技術に優れた当時の人たちの西洋へのあこがれが感じられ興味深い。

文・野々村 泰彦

桐生織物記念館

小中学生の見学が絶えない織物参考館
「紫(ゆかり)」

「ゆかり」の機織り実習

桐生天満宮

群馬大学工学部同窓記念会館