明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

地元の山から切り出した木材で築造、こけら葺(ふ)きの屋根に尖塔(せんとう)の和洋折衷様式(写真・三島 叡)

所在地:北海道留萌群小平(おびら)町 完成:1905(明治38)年

ひと息

旧花田家番屋地図

 北海道には小樽、石狩、留萌などに10カ所を超えるニシン番屋が残っているが、国の重要文化財に指定されているのは旧花田家番屋のみ。
 その隣にある「道の駅おびら鰊番屋」では鰊ルイベ定食、ウニ玉丼、ニシンそばなどが食べられる。近くには小さな郷土資料館も。海沿いの「にしん文化歴史公園」には北海道の名付け親・松浦武四郎の像が建つ。天候と時間が合えば夕日の絶景スポットという。
 留萌市内からタクシー、あるいは沿岸バスで「花田番屋前」まで45分程度。

一獲千金の群来に やん衆の活気沸く ニシン御殿の夢空間

春の季語に「鰊群来(にしんくき)」がある。春告魚とも呼ばれるニシンが海藻に産卵するため海岸に押し寄せ、雄の精液で海面が乳白色に染まる現象をいう。

北海道の日本海側で彼岸ころから八十八夜ころまで見られる。というのは明治、大正から昭和20年代までの話で、昭和30年代以降はパッタリ群来がなくなってしまった。今や「鰊群来まぼろしにして浦まつり」(草村素子)であり、「あれからニシンはどこへ行ったやら」(なかにし礼作詞「石狩挽歌」)なのである。

網一起こし千両

「鰊」「鰊群来」に加え「鰊舟」「鰊曇」など多くの季語が残るように、ニシン漁はかつて北海道の漁業総生産額の7割を占めるほど盛んな風物詩だった。明治に入って漁場が開放されて以降、漁獲量は飛躍的に増加し、1897(明治30)年には、97万3000トンの史上最高を記録している。

明治、大正の最盛期に網元たちは、多くの定置網を仕掛け、数百人のやん衆を使って「網一起こしで千両」の荒稼ぎをした。その住居兼漁業基地として建てたのが、今も各地に残るニシン御殿と呼ばれる番屋である。

網元たちは大規模、豪華な番屋建設を競った。日露戦争当時の創建といわれる旧花田家番屋は、間口約40メートル、奥行き約23メートルの木造一部2階建てで、延べ床面積906平方メートルと道内最大規模。入り母屋造りの玄関を入るとニワと呼ぶ土間を境に、右手は吹き抜けになっており、季節労働で漁をしたやん衆の生活空間だ。

広い板敷きの居間には囲炉裏が3つも切られ、やん衆はここで食事をし、居間をL字型に囲む階段状の寝床で休んだ。太い頑丈な柱や梁(はり)が組まれ、広大な舞台を思わせる空間だが、漁期には200人からが寝泊まりし、立ったまま食事をしたというから、喧噪(けんそう)と活気がしのばれる。

受付に座る老人は親子2代、地元でニシンの刺し網漁に従事したという。「やん衆は道南や青森、秋田、岩手の東北3県から親方に率いられてやって来た。群来があれば銀行員の月給の倍近く稼いだ」と往時を振り返る。

土間の左手、網元の住居部分は帳場、金庫の間に客間2室、女中部屋などもあり、欄間の透かし彫りや、扉に色ガラスをはめた洋風便所など贅(ぜい)を尽くしている。「鱗族皆集」の扁額(へんがく)が当時の網元の威勢を示している。

花田家は初代伝七が江戸時代にニシン漁場を経営。3代伝七の二男伝作が跡を継ぎ、最盛時には18統(とう)の定置網と、舟倉、粕倉(かすぐら)など100棟近い建物を持ち、汽船による輸送業や牧場まで営み、500人以上を雇っていたという。

群来絶え半世紀

北海道のニシン漁業が潤ったのは、ニシンを加工した〆粕(しめかす)が本土の菜種、綿花、藍(あい)栽培などの安価な肥料として欠かせなかったからだった。小平町教育委員会の長澤政之学芸員は「本州農業、ひいては日本の近代産業を支える重要な役割を果たした」という。

ニシンの漁獲量は戦後は年間10万―20万トン台に落ち、1954(昭和29)年の11万8000トン弱を最後に、翌55年には4万トン台に急落、以来ニシン群来は途絶えた。海水温の上昇、乱獲、森林伐採などが原因とされ、北海道では近年、資源増大のため稚魚の放流などを行っている。10年前には留萌市で幅150メートル、長さ約2キロの海面が白濁、45年ぶりの群来と騒がれたが、一時的現象で終わったようだ。

静まり返った木造空間に、かつてのやん衆の喧噪を思い描き、番屋の外に出た。すぐ目の前の海をさえぎるように、日本海オロロンライン(国道232号)を車が疾走している。空はニシン曇りだが、灰色にうねる日本海に魚が押し寄せる気配はまだない。

文・石田 修大

村総出の背負い

小平町教育委員会提供

■村総出の背負い

 最盛期にはニシン群来があると、やん衆は舟を漕(こ)いで定置網に取り組み、地元の女性や老人、子供までニシンを背負い籠(かご)で背負って運んだ。学校も「群来休み」になる、村を挙げての大仕事であった。


日本経済新聞 夕刊 2009年2月26日(木) 掲載

探訪余話

黄金と慟哭の海

御殿と呼ばれるほどのニシン番屋を築き、長者番付に名を連ねたという網元たち。往時の繁盛ぶりは番屋の豪壮さからも推測がつく。

旧花田家番屋の受付で、来客にかつてのニシン漁の実際を説明する老人によると、漁による収入の取り分は「親方9、やん衆1」が一般的だった。だが、花田家の分家した当主は合理的な人だったそうで、やん衆により多く報いたため、他の番屋以上に栄えたという。

花田家では戦時中にニシン漁から手を引いたが、その後もずっと一家が暮らしていけるほどの資産があったといわれる。

もっとも、戦後長らく、やん衆の居間、寝床などは補修もせず、漁具なども手放したため、重要文化財指定時に小平町が買い取り、解体・修理して現在の姿にしている。やん衆の持ち物などを置いていた寝床の下の空間には、網などの漁具類やニシンを運ぶもっこなどを展示しているが、これも花田家のものではなく、ほかで使っていたものだ。

町では毎年5月下旬に、番屋内外で「鰊番屋まつり」を行っている。大漁宝引き、大漁もちまきなどニシン漁にちなんだゲーム大会が行われ、踊りなども披露されるほか、地元の水産物、特産物の直売も人気を呼んでいる。

番屋がかつての華やかさを示す遺産とすれば、番屋前の海岸に建てられた碑は終戦直後の悲劇を伝えている。1945(昭和25)年8月22日、樺太(サハリン)から緊急引き揚げした5000余人の乗員・乗客を載せた泰東丸など3隻が、ようやく番屋の沖の海上に達した。そのとき、突然、ソ連潜水艦の砲撃を受け沈没、大破、1708人が亡くなった。

終戦1週間後の悲劇を忘れぬようにと、30年後に建てられたのが「三船遭難慰霊之碑」。隣には5年前に遺族会が建てた「慟哭(どうこく)の海に誓う」の歌碑もあり、「母よ娘よ妹よ/叫べど返る声聞けず」などと刻まれている。

番屋の帰り、留萌市内に戻って港に足を運んだ。夕日を見たかったからだが、途中、港の突端に女性像のデザイン灯台があると聞いて寄ってみた。

岩に座った女性が空に向かって丸い灯を差し上げたブロンズ製で、「波灯(はとう)の女(ひと)」灯台と名付けられている。7メートルほどの高さだが、約5キロ先まで光が届くという。

灯台からさらに先に行ったところが、日本一の夕日を売り物にする黄金岬。かつて千石漁場と呼ばれ、ニシンを満載した船が夕日で黄金色に輝く海を往来していたことから、黄金岬と呼ばれるようになった。海岸はカンラン石、玄武岩の柱状節理で、柱状の岩の上で子供たちやカップルがカニを追いかけていた。

夕刻、太陽が水平線に落ち込む時間になったが、あいにくの曇りで夕日は拝めなかった。それでも雲の一部を染めた夕日は、なるほど日本一の夕日の片鱗をうかがわせる美しさだった。

文・石田 修大

左半分が網元の住居

寝台下には漁網などを展示

三船遭難を悼む歌碑

留萌港の「波灯の女」灯台

黄金岬の夕日の片鱗