明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

紡織の生産性を飛躍的に向上させた蒸気機関(手前)と屋根に塵突を載せた赤煉瓦の工場(写真・多田 征樹)

所在地:名古屋市西区 完成:1911(明治44)年

ひと息

産業技術記念館地図

 豊田自働織布工場の建物を産業遺産として保存する意味もあってつくられた「トヨタテクノミュージアム産業技術記念館」は、繊維機械館と自動車館に大きく分かれている。そのいずれにも、主要な製品が展示され、かつての工場の風景が再現されている。
 興味深いのは、それらのかなりの機械が動態保存されていて、実際の動きを見ることができることだ。巨大な蒸気機関やかわいらしい音楽ロボットなどの実演もあり、1日をここで過ごしても飽きることがない。徒歩圏内に陶磁器メーカーが運営する「ノリタケの森」があり、明治時代の洋食器や絵付けの光景などを見られる。

自動織機開発のための 実験工場建設が トヨタ発展の原点

「モノづくり」に賭けた工業人のあくなき情熱を物語る遺産が、名古屋駅の北側、1.3キロほどのところにある。かつての豊田紡織栄生工場。巨大な赤煉瓦(れんが)の建物である。

1911(明治44)年に、豊田自働織布工場として建設された当初は木造だったが、1918(大正7)年に煉瓦造りに改築された。工場を建設したのは豊田佐吉。戦前は「織機王」「発明王」と呼ばれて教科書にも載った偉人。いまや世界最大の自動車メーカーになった、トヨタグループの創始者である。

あくなき開発者魂

なぜこの建物が、あくなき情熱の所産なのか。それは、この織布工場が繊維事業そのものでの発展を目指したものではなかったからだ。佐吉の真の目的は、自動織機の開発にあった。

そのためには、高品質の糸が要る。糸の品質が悪ければ、糸が切れて織機が停止した場合に、原因が機械によるものか糸によるものか分からない。その問題を解決するために、糸作りにまで乗り出したのだ。いわば、この工場は、目的ではなく手段だった。

自動織機の開発――。それが、佐吉の生涯を賭けた夢だった。織物産地、遠州で生まれ育ち、機を織る母親の苦労を軽くしようという思いがあったといわれる。成功の第一歩は1890(明治23)年、23歳のときに木製の人力織機を発明、特許を取得したことだった。以後、人力を蒸気機関などの動力に置き換え、さらに人の負担を軽くし、高品質の製品を量産する工夫、つまり自動織機の完成に心血を注ぎ込むことになる。

織機製造事業が日露戦争後の不況で不振に陥ったとき、佐吉はいったん経営から退いた。研究開発に没頭しすぎたことなどから経営陣と対立したのだ。失意の佐吉は、1910(明治43)年、欧米視察の旅に出る。

己(おの)が技術の確かさを確認し翌年に帰国した佐吉は、名古屋に約3000坪の土地を確保、豊田自働織布工場を創設した。織機100台で操業を始め、1914(大正3)年に、より高品質の糸を求めて紡績部門を設けた。

それは半端なものではなかった。個人事業を株式会社の豊田紡織に改組した翌年の1919年には、織機が1000台、紡機が3万4000錘(すい)も唸(うな)りを上げていた。日本の綿布は品質の良さなどから海外市場を拡大、この収益が自動織機開発を加速するバネになった。

当時の活況ぶりは現在「産業技術記念館」になっている工場跡に立てば容易に想像できる。旧工場内に百数十本もの檜(ひのき)の柱が立ち並ぶ様は壮観である。外壁の赤煉瓦は三河産。煉瓦壁は自立壁で、内部の木造の建屋とは独立した造りになっている。

林立する柱を支えているのはコンクリート造りの基礎で、下には松杭(くい)打ちが施されている。機械の荷重や振動に耐え得る頑強な構造なのである。

国産車進出の原資に

工場の屋根は、三角の波が連なったような鋸(のこぎり)状。屋根には、楼閣状に突き出た構造物が2つ建つ。高さ14メートルで、幅が7メートルと13メートルのそれは、「塵突(じんとつ)」と呼ばれた。当時の紡績工場では綿埃(わたぼこり)や糸屑(いとくず)が舞うのは避けられなかったので、それらを外へ吹き出すための仕掛けだった。

1924(大正13)年、佐吉は遂に夢を実現した。すべてを自動で行う無停止杼換式(ひがえしき)豊田自動織機(G型)を完成したのだ。最初の人力織機を開発してから34年後のことだった。

この、当時最先端の機械、G型の特許権を英国のプラット社に売った10万ポンドが、豊田家が自動車事業に乗り出す原資になった。かつて欧米の街を行き交う自動車に興味を引かれた佐吉は、30年に没する前、長男の喜一郎に国産車の事業化を強く勧めたのだといわれる。

文・須藤 公明

大正時代の紡織工場

トヨタテクノミュージアム産業技術記念館提供

■大正時代の紡織工場

 立ち並ぶ機械を運転するために、天井から動力を伝えるベルトが下がっている。1人で何台もの機械を受け持てるようになった結果、綿布の生産性が飛躍的に向上、海外市場開拓につながった。


日本経済新聞 夕刊 2009年2月12日(木) 掲載

探訪余話

佐吉のモノづくり精神

かつての豊田自働織布工場は、いま、トヨタテクノミュージアム産業技術記念館になっている。そのロビーのほぼ真ん中に、巨大な円形の機械が鎮座している。

上方に、吹き流しのような白い布が垂れている。この機械は、豊田佐吉が開発した「環状織機」である。通常の織機は、緯糸(よこいと)が経糸(たていと)の間を縫う往復運動を繰り返す仕組みなのだが、それを回転円運動に置き換えたものだ。

なぜ、佐吉は、このような装置を考案したのか。それは、動いて止まって、を繰り返す往復運動の機械に比べエネルギーのロスが小さい、超幅広の布を織ることができる、静粛である――などのメリットを追求してのことだった。

そしてこの機械は、見事に完成し、「夢の織機」という評価を得た。世界19カ国の特許も取った。だが、実用化はされなかった。製品を取り出すときの操作性などに問題があったからだという。

現在、地球温暖化問題、つまりCO2の排出量、エネルギーの使用量をいかに抑制するかが人類の課題になっているだけに、環状織機がお蔵入り状態のままになっているのは、残念至極というほかない。

それにしても、自動織機開発のために糸作りから取り組んだことといい、佐吉の探究心には驚嘆するばかりだ。そしてその姿勢、考え方が、「現地現物」「顧客第一」というトヨタグループのモノづくり精神の原点につながっている。

産業技術記念館は、「繊維機械館」と「自動車館」に分かれている。そのいずれでも、実に様々な技術の創意工夫を目の当たりにし、実感できる。

それは、ただ展示してあるのではなく、実際に動かして見せるという動態保存を基本にしていることによる。織機やエンジンなどは、動く様を見ることで、その複雑な構造、仕組みもすんなりと理解できる。素人にも分かりやすい形で丁寧に説明してくれるのもいい。

動態展示の典型が、綿埃や糸屑などを吹き出すための塵突(じんとつ)の立ち並ぶ建物をガラス越しに見えるところにある巨大な蒸気機関だ。

9本の鋼鉄のロープで発電機を回す様は壮観であり、滅多にお目に掛かれるものではないだろう。そのすぐそばで、1日に何回か、最新の電子技術を盛り込んだ音楽ロボットの実演もある。演奏に耳を傾けつつ、ロボット技術の将来に想いをはせるのも楽しいだろう。

赤煉瓦と鋸(のこぎり)状の屋根の産業技術記念館のある敷地には、かつての豊田紡織の本社事務所が修復され、内部には佐吉が取得した特許証や設計図などが展示されている。ここはまた、豊田自動織機やトヨタ自動車の設立総会が開催された、由緒ある場所でもある。

隣り合うように、佐吉が居住し、自動織機の開発に取り組んだ家屋も保存されている。こちらは1905年の建築だから、すでに1世紀以上も過ぎたことになる。

それにしても「完全な自動織機を開発するために、糸作りから手掛ける」「お客様に迷惑をかけないために、徹底して実証実験を繰り返し、納得がいくものが出来上がってから出荷する」という佐吉の姿勢には頭が下がるばかりだ。

そこには「儲かればいい」というような考えは、微塵もない。最近よくCSR(企業の社会的責任)が話題になるが、慶応年間に生まれた男がCSRの先駆けだったと思うと、感慨深いものがある。

文・須藤 公明

環状織機

自動車館の展示

トランペットを演奏する音楽ロボット

鋸屋根の赤煉瓦造り工場

トヨタ自動車などの設立総会が開催された、かつての豊田紡織本社