明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

欧州の温泉保養所を手本にした尖塔付きの浴場棟(写真・三島 叡)

所在地:長野県諏訪市 完成:1928(昭和3)年

ひと息

片倉館地図

 上諏訪地区は美術館が立ち並ぶ信州でも屈指のアートスポットだ。片倉館の目の前にあるのが諏訪市美術館。もともと1943(昭和18)年に建設された片倉館の付属施設「懐古館」だったが、戦後諏訪市に寄贈され、56年に現在の諏訪市美術館となった。
 諏訪市美術館を中心に北澤美術館、サンリツ服部美術館、諏訪市原田泰治美術館、北澤美術館新館(SUWA ガラスの里)が諏訪湖を囲む。温泉を楽しみながら、湖畔をぶらり歩いて絵画やガラス工芸など美の世界に浸ることができる。

シルク王の贈り物 社会還元の温泉施設 洋風銭湯、今も賑わう

長野県の諏訪湖周辺は湯の町である。東岸の上諏訪地区には大小のホテルや旅館が立ち並ぶ。湖畔でひとり異彩を放つ洋風建築がある。温泉施設の片倉館だ。「シルク王」と呼ばれた製糸事業家、2代片倉兼太郎(かねたろう)が80年前に巨費を投じて建てた。

手本はチェコの温泉

設計した森山松之助は、辰野金吾の弟子で、斬新で自由な発想に基づくデザインに定評があった。台湾で総督府など多くの官庁建築を手がけた建築家である。

およそ1万平方メートルの敷地に、庭園を持つ2棟の2階建て洋館がそびえる。1棟は高さ26メートルの尖塔(せんとう)と煙突を備えた鉄筋コンクリート造りの温泉浴場。1階には男女とも同じ大きさの「千人風呂」がある。広さ4メートル×7.5メートル、深さ1.1メートルの大理石製だ。

もう1棟は社交や娯楽を目的とした木造建築の会館棟。外観は同じ煉瓦(れんが)張りの洋風だが、内部は畳と障子の純和風だ。2階和室は200畳敷きの大広間である。片倉の意を受けた森山が、思う存分腕を振るった形跡がうかがえる。

2代兼太郎は、1922(大正11)年から23年にかけて欧米視察の旅に出た。第1次世界大戦後のヨーロッパの農村地域で充実した文化福利施設を目の当たりにして感心した。とりわけ当時のチェコスロバキアの温泉保養地カルルスバード(現カルロビバリ)の施設に感銘を受けたという。帰国後、すぐに温泉施設の建設計画を一族に諮り、5年後に西洋の城のような館が湖畔に完成した。

竣工(しゅんこう)式には県知事はじめ2000人が参列した。生糸工場が集まる対岸の岡谷から臨時列車が出て、上空には飛行機が宙返り飛行を演じたという。シルク王の贈り物は地域住民に銭湯代わり、そして寄宿舎住まいの女子従業員たちの疲れを癒やす施設として愛用された。

片倉王国

片倉家が製糸事業を始めたのは、1873(明治6)年。2代兼太郎の父片倉市助は、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)の自宅の庭で、小規模な生糸作りに着手した。明治政府が群馬に富岡製糸工場を開業した翌年のことである。

その後市助の長男初代兼太郎は、「時勢に順応し、国富増進に資する事業に進むに如(し)かず」と天竜川沿いに垣外(かいと)製糸場を建設、95(明治28)年には、片倉組(現在の片倉工業)を設立、各地で製糸工場を展開した。「雇人を優遇し一家族を以て視(み)る」と従業員の教育、保健衛生、福利厚生分野にも力を注いだ。

これを継いだ2代兼太郎は、1920(大正9)年、片倉組を株式会社に改組する一方、海外でも製糸事業を展開する。さらに紡績や肥料、製薬、食品、生損保などの事業を傘下に収め、製糸業を中核に「片倉王国」を築き上げた。

昭和初めの27(昭和2)年、蔵相の失言をきっかけに金融恐慌が発生、29年にはニューヨーク株式の大暴落が世界に波及し、日本も昭和恐慌に見舞われる。明治から昭和初期にかけてわが国の主軸産業だった製糸業の中心地、「生糸の都」とうたわれた岡谷の製糸工場でも27年、待遇改善を求めた女子従業員の争議が起こった。

この混乱期に2代兼太郎は、60万円もの巨費を投じて片倉館の建設を推し進めた。製糸新工場が3、4つは建つといわれた。需要の激減で、糸価が暴落、多くの群小製糸工場が閉鎖に追い込まれる中、片倉製糸の力は際立っていた。

2代兼太郎の死後の39(昭和14)年に、旧官営富岡製糸場を合併、片倉製糸の積極経営は戦時経済が強まるまで続く。

いま片倉館に入浴で訪れる人は、年間16万人にのぼる。諏訪市の文化財、湖畔の観光スポットとしても存在感を増している。湯煙の中に西洋彫刻が立ち、ステンドグラスが輝く。レトロな内装を眺めながら製糸王国の栄華を思う。ほかの温泉では味わえない趣がある。

文・宮内 章好

本邦初のクアハウス

財団法人片倉館提供

■本邦初のクアハウス

 諏訪湖上から撮影した完成したばかりの片倉館の全景。当時、慰安のため、5キロ離れた対岸の岡谷から船でやってくる製糸工場の女子従業員の姿が見られたという。


日本経済新聞 夕刊 2009年1月15日(木) 掲載

探訪余話

社会奉仕のため

JR中央本線上諏訪駅から10分も歩くと、諏訪湖畔を巡る県道「湖岸通り」に面した片倉館に着く。完成当時の「湖岸通り」は、自転車が通れるほどの細い道。湖畔に立ち上がった洋風建物は、片倉家発祥の地、対岸の岡谷からも良く見えたという。

「企業は社会の公器」との信念から2代片倉兼太郎が片倉組を片倉製糸紡績株式会社に改めたのが、1920(大正9)年のこと。本社を東京・京橋に置き、全国11府県および朝鮮半島に23工場・48支店を持つ「片倉王国」の誕生となった。

旅行嫌いだった2代兼太郎は、1922(大正11)年7月から翌年5月までおよそ10ヶ月の海外旅行に出る。第1次世界大戦で荒廃した欧州の様子や敗戦国ドイツの復興に励む姿に瞠目した。

「一層勤倹以って自重せざるべからず」との思いを強くする一方で、欧米諸国の農村の慰安休養施設を目の当たりにし、「お金を持っている人は、熱海や伊豆などの温泉に行くことができるが、諏訪の村々では、そんなことはできない。幸いなことに上諏訪の湖畔には温泉が湧くから、これを引いてきて浴場をつくって、付近の農村の人たちに公開してやりたいと思う」と帰国後、側近に語ったという(『二代片倉兼太郎翁伝』)。

28年10月、竣工式で2000人の参列者を前に、2代片倉兼太郎は「この建設を社会奉仕の一端とし、永くこれを利用していただきたい」と片倉館建設の意義を述べた。

完成翌年の昭和4年、運営のための財団法人片倉館を設立した。現理事長の片倉康行氏は「世の中は変化していくが、2代(兼太郎)が掲げた建設当時の精神は変わっていない」と強調する。

「浴場棟も会館棟もほとんど当時のままを残している」と案内してくれた財団法人片倉館の片倉照雄支配人。「千人風呂」の湯船は1mを超える深さだが、ふちには2段の段差があり、そこに腰をかければ半身浴が出来る。湯船の底には黒い玉砂利が敷いてあり、足を刺激し疲労回復に効果があるとか。料金は500円。

日本的経営の原点

2代片倉兼太郎は、「製糸王国」をつくり上げたが、併せて初代兼太郎から労使協調、共存共栄の事業経営の精神をも引き継いだ。創業当時、教育施設がなく「休憩時間中は自分の詰所で読書、算術あるいは修身談話をするように」とし、時折講師を招いて修身講話、教育幻燈を催す程度だった。

しかし、工場が拡大するにつれ、従業員に義務教育未了者が多くなり、組織的に普通教育を受けられるようにと、初代兼太郎は川岸村(現岡谷市)に私立尋常小学校を計画、校舎建設に着手したが、竣工をみないで他界した。

兄の遺志を継いだ2代兼太郎は工事を完成させ、知事の許可を得て1917(大正6)年に「私立片倉尋常小学校」を開校する。翌年には、近隣の同じ製糸業者の要請を受け入れ、共同の義務教育所とし、1922(大正11)年の工場法改正で義務教育未了者を雇用できなくなるまで続いた。

「事業は人である」――初代・2代片倉兼太郎の信条といわれる。このため、社宅や寄宿舎を完備するほか、女子従業員の保健衛生や体位向上を図ったという。慰安娯楽施設では、初代兼太郎が川岸村に2万円を投じて「三沢座劇場」を建設、舞台開きには市川団十郎一座を招請した。片倉館の建設も同様である。事業の発展を支えるのは、従業員の福利厚生と地域の共生にあるとの考えによるものだろう。

初代・2代兼太郎のこのような経営姿勢について、戦前の製糸業に付きまとう女工哀史論の先入観を払拭し、「日本的経営の原点」とする見方があることに改めて気付く。

糸都岡谷

四方を山に囲まれ、海抜750mの諏訪湖を抱えるこの地方は、明治以前から農家は副業として蚕を飼い生糸を取っていた。1872(明治5)年、明治新政府が始めた官営の富岡製糸工場に刺激され、全国でもっとも積極的に器械製糸の導入に取り組んだ。

「諏訪人が持つ質素、倹約、勤勉、忍耐、進取の気風が製糸王国諏訪を作り上げた大きな要因」と岡谷蚕糸博物館の鮎澤諭志学芸員は見る。また、繭の保管に適した乾燥した気候や製糸に必要な水にも恵まれた。なかでも自然の大貯水池諏訪湖とここから流れ出す天竜川の水は軟水で、絶好の製糸用水であり、「諏訪湖の水は糸になる」とまでうたわれた。

器械製糸の普及は急で、1879(明治12)年の10人繰器械製糸工場数は、全国で664工場、うち長野県は半数を超える358工場にのぼり、その3割が岡谷地区だった。これ以降、諏訪湖や天竜川沿いに製糸工場の建設が相次ぎ、諏訪地方は、明治後期には全国一の生糸産地に成長、わが国を世界最大の生糸生産国へと押し上げた。「糸都岡谷」の誕生である。

1972(明治5)年には人口わずか4500人足らずの平野村(現岡谷市)は1920(大正9)年には約4万5000人と10倍に膨れ上がった。その大部分が製糸労働者で、それも圧倒的に若い女子、いわゆる女工だった。若い女性が製糸労働者として次々と峠を越え岡谷に向かった。岐阜県飛騨の山村から難路の野麦峠を越え、岡谷の製糸工場に就労した明治期の女工の実態を描いた山本茂実の小説「あゝ野麦峠」は有名で、映画化された。

糸都岡谷は、大正から昭和初期にかけて大きく発展するが、1929(昭和4)年の米国株式の大暴落をきっかけとした世界恐慌は製糸業界を大きく揺さぶった。そして、1935(昭和10)年ごろから日米関係が悪化し、米国の通商条約廃棄で対米向け生糸輸出が止まった。さらに太平洋戦争による製糸業の軍需工場への転換で、製糸業界は衰退の道へ進むことになった。

2007(平成19)年11月、経済産業省の「近代化産業遺産群」認定式が横浜赤レンガ倉庫で行われた。このなかに近代製糸業の発展にかかわったとして岡谷市にある当時の片倉組事務所など15件が産業遺産の認定を受けている。

文・宮内 章好

初代片倉兼太郎の生家(岡谷市)

千人風呂

200畳の大広間

野麦峠のかつての女工宿(松本市)

初代・2代が拠点とした旧片倉組事務所(岡谷市)