明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

同時に完成した高層ビル、ランドマークタワーの足元、イルミネーションで飾られたドックヤードガーデン(写真・長田 浩)

所在地:神奈川県横浜市 完成:1897(明治30)年

ひと息

ドックヤードガーデン(2号ドック)地図

 ドックにゆかりのある作家が2人いる。1人は、『瞼(まぶた)の母』などで有名な長谷川伸。長谷川は少年時代に2号ドックの築造現場で働いていた。積み上がった石に水をかけたり、ムシロをかぶせたりの補助作業をしていたことを自伝に書いている。日本丸の浮く1号ドックの横にはその文学碑も建つ。
 もう1人は吉川英治。ドックを舞台にした小説『かんかん虫は唄(うた)う』を書いた。本人も若いころにドックに入った船に付いた貝などを削り落とす作業員の経験をしている。1号ドックでの作業中に転落事故にあい九死に一生を得た。それを機に東京に出て作家を目指したという。

横浜築港と同時に建設 民間最古の石造ドック イベント広場で再生

民間が築造した石造ドックでは最古となるのが旧横浜船渠(せんきょ)2号ドック。今はドックヤードガーデンとなり、隣に残る1号ドックとあわせて、ここ横浜みなとみらい地区がかつて造船所だったことをしのぶよすがともなっている。

全面に組み込まれた石材は神奈川県真鶴町産の小松石と推定されている。古くは鎌倉時代の寺社、江戸城の石垣、品川お台場などに使われ、優美、堅牢(けんろう)さが特徴の石だ。

『真鶴町史・資料編』には真鶴の土屋石店の「営業高調」が載っており、明治29年の項に「横浜船渠向け合計4万6962円余」の売り上げ記録が残る。一方、『旧横浜船渠株式会社史稿』には2号ドック用石材の落札者として「土屋大次郎」とある。この土屋大次郎が当時の土屋石店の当主だったことや石の成分分析で小松石と推定されるのだ。

現代では昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)など高級墓石や建築装飾などに使われるブランド石材。これを惜しげもなく敷き詰めた2つのドックは文字通り近代化の礎石となり、今は年間5000万人が訪れるみなとみらいで明治の香りを伝えている。

来年、開港150周年を迎える横浜港だが、初めの約35年間は桟橋、倉庫、修繕用ドックなど港に必要なインフラがなく、明治政府はお雇い外国人の元英国将校パーマーに築港計画の立案を依頼。その結果、桟橋は政府が、ドックは民間出資の横浜船渠会社が築造することになった。

パーマーの急死で海軍の技術者、恒川柳作が責任者となり1896(明治29)年3月にまず短い方の2号ドック(106メートル)、続いて東洋一の長さの1号ドック(146メートル)を着工、それぞれ97年、99年に竣工(しゅんこう)・稼働している。

高度な土木技術

ドックヤードガーデンに衣替えする際の三菱地所による解体調査によれば、工法はブラフ積みという西洋の石積み技術。内部には、地下水による浮き上がり現象を防ぐため煉瓦(れんが)製排水暗渠(あんきょ)を縦横に敷くなど、現代にも通用する高度な土木技術を施していた。

1人の石工が1日に積める石は7、8個が限度だが、1万7000もの石を重機もない明治中ごろに9カ月で積み上げたのも驚異的だ。

横浜船渠の修繕船事業は発足後、日露戦争などをへて順調に発展、1917年には新造船にも進出。造船所が壊滅した関東大震災でも石造の両ドックだけはびくともしなかった。氷川丸など多くの豪華客船を送り出すが、昭和恐慌で経営が傾き、35(昭和10)年、三菱重工業に合併された。

戦後は「造船王国ニッポン」の担い手、また横浜寄港時の頼りになる修繕ヤードとして世界の船乗りに親しまれた。ただ60年代に入り船型はいよいよ大型化し、明治生まれのドックは手狭となる。そして71年のニクソン・ショック、続くオイルショックを境に造船界も低迷に転じ、2号ドックも73年、ついに閉鎖された。

ハマの新名所

一方、当時の横浜市は戦後の占領長期化で遅れていた都市再開発計画を進めていた。後の「みなとみらい21」計画だ。造船所も立ち退き対象となり、83年、金沢区などに移転した。2つのドックは横浜市が保存活用を決め、旧横浜船渠生誕の地ははからずも屈指の観光スポット、ハマの新名所となり、国の重要文化財にもなる。

1号ドックには帆船日本丸が優雅な姿を浮かべ、2号ドックはスポーツ、音楽をはじめ、能・狂言に至るまで幅広いイベント広場として賑(にぎ)わう。近代化遺産を都市づくりに活用した模範例となった。

恒川柳作は築造当時『造船協会報』に「高価な石材やセメントを使ったのは完全なものを作り、利益を永遠に期すため」と書いた。がっしりした石組みは110年の風雪に耐え、恒川の狙いも超えて今、一段と輝きを増している。

文・倉田 静也

帆船日本丸

 

■帆船日本丸

 パーマーの基本設計書は能力面で1号ドックと名付けたが、着工は短い2号ドックが1年半ほど早かった。1号ドックは大正期に延長され、今はメモリアルパークとして、航海練習船日本丸(1930年進水)を保存している。


日本経済新聞 夕刊 2008年12月18日(木) 掲載

探訪余話

横浜ドックゆかりの人々

旧横浜船渠のドックゆかりの人物は多士済々。その足跡をたどってみよう。

京浜急行・日の出町駅近くの野毛山。その頂上にある貯水池跡の公園の一角に旧横浜船渠のドックの基本設計者であるヘンリー・スペンサー・パーマーの胸像が立つ。パーマーが日本最初の近代水道である横浜の上水道を設計・監督したことを顕彰、20年ぐらい前に建立されたものだ。

パーマーは横浜の上水道計画ばかりでなく、横浜築港基本計画(桟橋や修繕ドック、倉庫などを建設する総合計画)も作成、いわば横浜の恩人のような人物だが、不幸にして腸チフスが原因で、ドック着工を前にして急死した。胸像は横浜港を向かず上水道で潤った横浜市街全体を見守るかのように立っている。

日本の不平等条約改定に関し、日本側の考えを代弁して英国の『ザ・タイムズ』などに論陣を張った事でも知られるパーマーは亡くなる1年前に日本女性との間に1女をなしており、今ではその子孫が大学教授などいろいろな場で活躍、パーマーの遺志は脈々と生き続けているといえよう。

ドックの石材は神奈川県真鶴町の小松石といわれ、それを納入したのは真鶴の土屋石店とされる。土屋家は鎌倉時代からの真鶴の石業界の総元締めのような存在で、江戸城の石垣、お台場など大案件のたびに商談、納品を取り仕切ってきたようだ。旧横浜船渠から受注したころの当主は土屋大次郎といい、後に衆議院議員もなっている。その土屋家旧宅は現在、真鶴町民俗資料館になっている。

ドックヤードガーデンとなっている2号ドックは昭和58年の造船所閉鎖・移転後、一旦、保全のため所有者で再開発を行った三菱地所により解体・発掘され学術調査後、再築造されている。最初の位置からわずかにずらし、長さも少し短くしたが、ほぼ元のまま再現した。

その作業の最中、ドックの底から鉛に覆われた桐箱が発掘され中から純銀製のプレートが出てきた。そのプレートには「為建基式紀念 明治29年3月29日」と彫られ、当時の横浜船渠の代表者であった川田隆吉専務取締役以下の経営者や、ドックの詳細設計者で海軍技官の恒川柳作など9人の氏名が刻まれていた。着工を記念して埋められたものとみられるこのプレートは現在、横浜ランドマークタワーの3階のドックヤードガーデンを見おろすフロアに展示されている。

プレートの筆頭にある川田隆吉は明治中期に英グラスゴー大学工学部に留学、機械工学を学んだ俊才。着工式後、間もなく社長に就任、1、2号両ドックの建設を進め、その完成を見届けるや、あっさり社長を退いた。その後、経営の傾いた函館ドックの経営に携わりその再建にも成功する。そして、亡くなるまで北海道に住み続け、農業振興に尽力、寒さに強いジャガイモの種を英国から導入・改良した。そのジャガイモは川田が得ていた爵位にちなみ今では「男爵いも」として有名だ。

またドックの設計・監督をした恒川柳作は現役の海軍技官で横浜船渠の前に海軍横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠、戦後は米軍横須賀基地)の第2号ドックをはじめ呉、佐世保の海軍ドックの建設責任者として経験を積み、日本人としては初の「ドック建設のスペシャリスト」といわれた人物である。現役の海軍軍人が民間のドック建設を指揮したのは横浜港を早く整備したいという、当時の国策上の理由からと見られている。

横浜船渠は1917年に新造船事業に乗り出すが、そのきっかけとなったのはやはり横浜の企業家で後に浅野財閥を築き、京浜工業地帯開発の父といわれた浅野総一郎だ。浅野はこともあろうに横浜船渠のすぐ隣接地に横浜船渠を下請けに使う新造船所を企て、低コストの定型船建造で新規参入を図った。浅野は最終的には鶴見に立地(後の日本鋼管、現在のJFEエンジニアリング)したが、これに驚いた横浜船渠もあわてて新造船参入を決めた様子が『三菱重工横浜製作所百年史』に書かれている。

時代は下るが、横浜の飛鳥田一雄革新市政下で市の企画調整局長、技監などを歴任したのが田村明法政大学名誉教授である。「アーバンデザイン」という当時全く新しい戦略的な都市計画思想を提唱・実現し、その強引さから“田村天皇”の異名を奉られた。

その思想は新しかったが、一方でドックや赤レンガ倉庫、汽車道など古いものをみなとみらい地区に残すことを強く主張、それらが今では地区のシンボル的存在となっている。「歩いていて楽しくなくては街にならない」が田村の口癖だった。

三菱重工の横浜造船所に40年近く船舶技術者として勤務、この2本のドックと苦楽を共にした若崎浩氏(75)はドックを眺めながらこう述懐する。「自分達の汗と油がしみ込んだドックがこうして残り、しかも今、そこに多くの観光客が訪れるのを見るのは不思議な気がするが、すごく嬉しいことだ」。

横浜ゆかりの作家といえば大仏次郎をはじめ枚挙にいとまがないが、横浜船渠ゆかりの作家も意外に多い。劇作家の長谷川伸は、子供時代は家が貧しくドックの築造工事に参加している。その自伝的な回想記『ある市井の徒』には「第二号ドックの周囲の石の壁はその一つずつが誕生の日から二日か三日ずつ残らず新コ(長谷川伸は自身を新コと称している)が撒いた水を受けたものばかりです」と愛着を込めて書いている。

石工が積み上げる石に水をやったり筵(むしろ)を掛けるなどの補助作業をしていた。横浜港史に詳しい田中祥夫工学博士(元横浜市建設局幹部)は『三菱重工横浜製作所百年史』の中にあるドックの建基式(着工式のようなもの、明治29年3月29日)の記念写真の中に長谷川伸と見られる少年が写っていることを確認している。

また『新コ半代記』などほかの著書でもドック時代のことがつづられ、設計・監督の恒川柳作をはじめとする人物評が面白い。ちなみに築造現場の責任者、恒川は海軍軍人のわりには、ほとんど怒鳴ったりしない、もの静かな人物だったと書いている。

『宮本武蔵』などで知られる吉川英治が横浜のドックや横浜の町を舞台に描いた小説が『かんかん虫は唄う』である。ドックに入り、修繕船の外壁に張り付いて海藻や貝などをそぎ落とす仕事をするのが「かんかん虫」といわれる作業員。

小説はちょっと不良っぽいが義侠心に富んだかんかん虫の少年が石炭成金の悪徳貿易商の不正義を暴く痛快な小説だ。小説には明治の元勲である大隈重信まで登場するほか、根岸の競馬場や伊勢佐木町、それに中華街の万珍楼も出てくる。

日清戦争直後の横浜の町や世相、風俗を描き、明治時代の横浜がどんな街だったかを活写している。

吉川自身、作家になる前の若いころ、家の事情から旧横浜船渠でかんかん虫をしていた。1号ドックでの作業中に足場から転落し辛うじて一命を取りとめるような大怪我をした。入院したのを機に東京に出て作家を目指した。ドックでの転落事故がなければ国民的作家は出なかったかもしれない。

文・倉田 静也

野毛山に立つパーマーの胸像

建設中の2号ドック(横浜市提供)

ドックヤードガーデン

ドック底部から発掘された建基式のプレート

日本丸横にある長谷川伸の文学碑