明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

「海軍と引き揚げの町」は「赤れんがの町」に変わった(写真・長田 浩)

所在地:京都府舞鶴市 完成:1902(明治35)年

ひと息

旧鎮守府倉庫群地図

 舞鶴は「肉じゃが発祥の地」を自任している。初代長官の東郷平八郎(当時中将)が英国留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられず料理番に作らせた。しょうゆ味の和風ながら、当時、水兵に多かった脚気(かっけ)の予防によいと推奨し、海軍の艦上食として広まった。地元は「肉じゃがマップ」で市内の店を紹介している。
 古くからかまぼこが特産品で、京阪に出荷している。冬期はカニ料理が名物だが高価。近年は岩ガキ丼を売り出し好評。舞鶴湾で育った大粒のカキを夏場に採り、かまぼこと一緒に具にしている。

軍港都市の顔 凱旋と引き揚げ見守った 岸壁の赤煉瓦

舞鶴の東西両地区を隔てる五老岳の展望台に立つと、複雑に入り組んだ海岸線を一望できる。若狭湾が内陸にくいこみ静かな内海をつくっている。天然の良港に目を付けた明治政府はロシアを仮想敵とした軍事拠点をここに置く。1901(明治34)年に開設した海軍舞鶴鎮守府である。

農漁村が点在していただけの東舞鶴地区に海軍施設を集中的に建て、軍関係者の住むニュータウンを造った。このとき軍港岸壁に沿って軍需品の保管倉庫を多数設けた。これらの赤煉瓦(れんが)造り倉庫群は現在も残り、市役所周辺の7棟が今年、国の重要文化財に指定された。

当時としては最先端の工法を採用した。煉瓦は大阪から調達したが、躯体(くたい)の鉄骨は米国から輸入した。対露関係は緊迫しており、私鉄全盛の時代、福知山から舞鶴までの鉄道を官設で敷いた。堅牢(けんろう)な煉瓦倉庫の群れからは「強兵」にかける政府の意気込みがうかがえる。海上から見る煉瓦建築の群れは舞鶴の顔になった。

提灯行列

こうしてできた軍港都市に、英国で建造されたばかりの戦艦三笠が配備された。舞鶴鎮守府の初代指令長官だった東郷平八郎がその三笠を率いて黄海海戦でロシア艦隊を撃破、日本海海戦で大勝した。降伏戦艦「アリヨール」(修繕して軍艦石見に)が回航されたとき、町はいやがうえにも沸き立った。提灯(ちょうちん)行列と打ち上げ花火。軍港所属軍艦の乗員3000人の凱旋(がいせん)を迎えての祝賀会は深夜まで続いた。

だが、海軍の主力が太平洋に移ると舞鶴の地位は相対的に低下した。大正の軍縮条約により鎮守府から要港部にいったん格下げされた。呉や横須賀のように大型戦艦や新鋭駆逐艦が配備されることはなかった。

舞鶴が再び脚光を浴びるのは敗戦直後の45年9月に門司港などと共に引き揚げ港になってからだ。大陸、南方などに残された邦人の数は、軍人・軍属約330万人、一般人約300万人に上った。海外からの引き揚げ事業は史上類例を見ない民族大移動であった。

10月に釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのが第一船。帰国朝鮮人を送った帰りの船だった。この年、引揚援護局も開設され、以降58年までの13年間、舞鶴は「引き揚げの町、母なる港」として悲喜こもごものドラマが展開する舞台となった。

舞鶴港の受け入れ引き揚げ者数は約66万人、就航船は日本国籍32隻、米国貸与船25隻で延べ346隻が入港した。

ふかしイモ

シベリアなど旧ソ連で抑留生活を送っていた人々を専ら受け入れたのが舞鶴だった。港の地域別受け入れ数でみるとソ連が7割にのぼる。対ソ交渉が遅れたため、引き揚げ港の役目も長期にわたった。

引き揚げ船に横付けされたランチに乗って桟橋から上陸した。援護局舎に滞在、手続きをした後、京都駅から故郷を目指した。援護局舎は都道府県の駐在員がいて世話をしたが、舞鶴市民はこぞって帰国歓迎の奉仕活動に参加した。戦時の「必勝祈願」横断幕は「帰国歓迎」に変わった。広場で湯茶やふかしイモをふるまい、駅頭で列車を見送った。

帰国、再会の喜びの輪と離れ、帰らぬ子や夫を待つ母や妻がいた。桟橋や海岸には海のかなたを眺めたたずむ姿があり、いつしか「岸壁の母」「岸壁の妻」という言葉が生まれた。

「もしや、もしや」と歌う「岸壁の母」は54年に菊池章子がレコードに吹き込み、72年に二葉百合子がせりふ入りで大ヒットさせ、同名の映画にもなった。

戦勝兵士の凱旋と敗戦引き揚げ者の帰国を見守り続けた岸壁の赤煉瓦倉庫。平成の今は「赤れんが博物館」やイベントホールに変わり、夜間はライトアップに浮かんで観光客の目を楽しませている。

文・名和 修

引揚援護局舎

『引揚港舞鶴の記録』(舞鶴市編)より

■引揚援護局舎

 ランチで桟橋に上陸した引き揚げ者は出迎えを受け、海辺の引揚援護局舎へ。局舎は海兵団の兵舎を転用した建物。69年に解体され、今は工業団地になっている。


日本経済新聞 夕刊 2008年12月11日(木) 掲載

探訪余話

二つの博物館

舞鶴赤煉瓦倉庫のうち市役所周辺の3つの建物は「赤れんが博物館」、「舞鶴市政記念館」、「まいづる智恵蔵」として活用されている。市制記念館は舞鶴市の足取りを展示し、ホールにはしゃれたカフェがある。「知恵蔵」は定期的に美術展などの催しを行っている。

ユニークなのは、世界でここだけという「赤れんが博物館」である。舞鶴は倉庫、トンネル、橋など煉瓦構造物が多く残る。遺産を活かそう、と町おこしのテーマとして「赤れんがの町」を掲げその核に専門博物館を作った。

旧海軍兵器廠魚形水雷庫として建造された倉庫を転用し、1993(平成5)年にオープン。館内には世界39ケ国から収集した約1500点の煉瓦の内400点を常設展示するとともに、ジオラマ模型や写真パネルでれんが建築とその歴史を紹介する。

古代楔形文字が刻印されたメソポタミアの煉瓦や、古代ローマ帝国、中国漢時代の煉瓦など時空を超えて広く収集。たかが煉瓦されど煉瓦、よくぞこれだけ集めたものと感心する。

建物は本格的な鉄骨構造としては、わが国に現存する最古のものという。天井を支える鉄骨を見上げるとカーネギー社の銘がある。当時、官営八幡製鉄所が操業を開始したばかりで、米国製に頼らざるをえなかった。

また、フランス積み煉瓦建築物の数少ない例という。フランス積みは明治初期のれんが建造物には使用されてきたが、明治20年頃からのちは施工の複雑さなどのため用いられなくなり、イギリス積みが主流になっていく。

舞鶴で見逃せぬもうひとつの博物館が舞鶴引揚記念館だ。東港北部の小高い丘の上に88(昭和63)年にオープンした。

この地は、麓の海辺に桟橋があり背後に援護局舎が並んでいた。引き上げ事業を後世に伝え、平和を願うために舞鶴市と京都府が建てた。

満蒙開拓団の写真、シベリアでの抑留、ラーゲリ(収容所)での過酷な労働と粗末な生活を模型人形、帰還者から託された衣服や道具類などで展示する。

そして、祖国への引揚。引揚船模型、引揚の様子を当時の写真で紹介する。岩壁の母のモデルになった 端野いせさんに関する資料も展示されている。地元ボランティアがシベリア抑留の様子や引揚事業の経緯をわかりやすく説明してくれる。

館を出て海辺に降りると移設された引揚桟橋跡がある。ソ連からの引揚者を専ら受け入れた平(たいら)桟橋だ。ここで祖国への第一歩をしるした著名人に三波春夫(歌手)、宇野宗佑(元首相)、佐藤忠良(彫刻家)らがいた。

東と西の舞鶴

煉瓦倉庫や引揚援護施設のあった東舞鶴地区は明治にはいってつくられた町だ。碁盤の目のように道路がはしり、街路に「三笠」、「敷島」など軍艦の名前が付いている。今も海上自衛隊の総監部があり造船所のある港にさまざまな艦船が浮かぶ。イージス艦や南極観測船も停泊している。小樽港と結ぶフェリー便もここから発着する。

一方、西舞鶴は古くからの港町で、1580(天正8)に細川幽斎・忠興父子が築いた城下町として発展した。江戸時代には譜代の牧野氏が田辺藩をたて幕末まで続いた。由良川河口の神崎港が西廻り海運の寄港地として栄え、廻船問屋が立ち並んだ。1869(明治2)年、町は田辺城の別称「舞鶴」をとって舞鶴町に改称した。東舞鶴が近代都市で出発したのに対し西舞鶴は史跡の田辺城跡(舞鶴公園)や牧野氏が開いた藩校、明倫館の正門、廻船問屋倉庫などの古い町並みが残っていて新旧の対照が面白い。

ことに昔からの漁師町、吉原地区は路地裏好きには格好の散歩道。運河沿いに長屋状に家々が並んでいる。丹後の伊根町に残る舟屋と同じで、1階は漁具などを置く作業場、2階が住居。川をへだてて密集する家々は生活感にあふれ独特の風情がある。数多い赤煉瓦の遺構とあわせ映画やテレビドラマのロケに使われる。

かつて軍人や引揚事業関係者でにぎわった舞鶴市だが近年は人口減少著しく、ご多分にもれず、中心街にシャッターで閉じた店が目立つ。舞鶴市は地域振興に熱心で、放置されていた煉瓦建築群を町おこしの目玉にすえさまざまな取り組みをしている。「ロマンチックロード舞鶴」をキャッチコピーに、夏のジャズ祭などのイベント、観光ボランティアの育成、新鮮な魚介料理のPRや映画ロケーション誘致になどに知恵をしぼっている。

文・名和 修

ライトアップされた倉庫群

強制収容所の復元模型

復元された引揚桟橋

五老岳からみた舞鶴湾

吉原地区の家並み