明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

江田島へ移転してから5年後に通称「赤れんが」の生徒館が完成。現在は海上自衛隊幹部候補生学校(写真・多田 征樹)

所在地:広島県江田島市 完成:1893(明治26)年

ひと息

旧海軍兵学校地図

 「海兵」名物の「五省」を紹介しよう。
一、至誠に悖(もと)るなかりしか。一、言行に恥ずるなかりしか。一、気力に欠くるなかりしか。一、努力に憾(うら)みなかりしか。一、不精に亘(わた)るなかりしか。
 生徒は毎日、就寝前の5分間、当番生徒の読み上げる5カ条を聞き自己反省した。米アナポリスの海軍兵学校はその英語版を掲げている。戦後、江田島を視察に訪れた海軍幹部が感銘したらしい。「スマート、ステディ、サイレント」の3Sというのもあったらしい。現代人の心構えにも響く部分がありそうだ。

あこがれの「江田島」 海軍士官を養成 日米戦で多数の犠牲

「貴様と俺(おれ)とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く――」。ご存じ軍歌「同期の桜」で歌われる兵学校とは、旧日本海軍の士官を養成した海軍兵学校(略して海兵)のことである。

その海兵は広島湾に浮かぶ江田島にあった。海軍鎮守府と巨大軍需工場のあった対岸の呉と併せ日本軍最大の拠点。江田島は海軍軍人のふるさとだった。

人づくり優先

旧兵学校を訪ねて、まず驚くのが華麗な建物群である。白砂青松の地に名建築の数々が往時の姿のまま建ち並んでいるのだ。

正面の門を入ると右手に大講堂。御影石で造られた白亜の殿堂だ。次いで新旧の生徒館。右側の旧生徒館は赤煉瓦(れんが)造り2階建てで、「海兵」のシンボル建築。お雇い外国人の英国建築家が明治に設計した。奥の教育参考館は、昭和前期の建築。6本の門柱がそそり立ちギリシャ神殿のようだ。

古鷹山を背にした生徒館の前には全面芝生の広大なグラウンドが広がる。ちり1つない校庭に立つと、思わず背筋を伸ばしてしまう。これらの建築群は今も海上自衛隊が幹部教育などに使っており、見学を受け入れている。

明治新政府が発足して間もなく富国強兵の柱として海兵は生まれた。海軍事始めは、船を造ることより人づくりを優先した。初めは東京・築地に置いたが、1888(明治21)年、江田島に移った。紅灯緑酒の誘惑多い東京をあえて避け、呉の海軍鎮守府が睨(にら)みを利かす島しょを選んだ。以後、敗戦による閉校までの77年、日本海軍の栄光と落日をそのまま体現してきた。

江田島の名を全国にとどろかせたのは、入学が大変な狭き門だったこと。旧制一高と肩を並べるほどの最難関校だった。官費全寮制で、制服に短剣を帯び、国を背負って立つ誇り。これらが人気の秘密だった。学生は艦隊指揮官となる基礎教育をみっちり受けた。教育は典型的な和魂洋才型。英国風紳士の育成が伝統で、英語教育も最後まで続けた。規律は厳しいが、開明的な校風だった。

戦後復興の担い手

日露戦争での日本海海戦の大勝利が栄光の頂点で、それから40年後に落日が訪れる。1941(昭和16)年の12月8日に始まる太平洋戦争。開戦の直後に呉で誕生した戦艦大和は落日の象徴となった。不沈戦艦と謳(うた)われながら、艦隊決戦の機会もないまま沖縄特攻作戦に出撃、3000人の将兵と共に海の藻屑(もくず)と消えた。

海兵卒業生の総合計1万千余人のうち戦公死者は4000人を超すが、その95%は太平洋戦争の犠牲者である。日清・日露から日中戦争までは5%に過ぎない。開戦直前に江田島を巣立った青年士官たちの実に3人に2人が帰らぬ身となった。

戦後、敗戦の原因に江田島教育の失敗を挙げる意見もあった。沈黙を美風とする伝統が開戦を防げなかった、大艦巨砲を前提とした軍事教育は航空機優先の時代に乗り遅れた、成績順にハンモック(寝床)の順番を決め卒業時の席次が昇進を左右する「ハンモックナンバー」システムに問題があった――などだ。

戦後の日本は短期間に経済復興を成し遂げたが、呉と江田島もその一翼を担った。呉の旧海軍工場はマンモスタンカーを建造する巨大造船所に変わった。終戦時、1万人以上いた江田島の在校生は復員し、新生日本のリーダー的存在になった。江田島人脈は各界の要職を占めた。

呉市は3年前に「大和ミュージアム」を立ち上げ盛況だ。戦艦大和の10分の1模型が目玉だが、科学技術やモノづくりをテーマとした多くの展示がある。江田島の教育参考館には歴史資料が公開されている。呉・江田島に集積する海軍関連遺産は、多くのことを語りかけてくれる。

文・諸星 龍三

10分の1大和

 

■10分の1大和

 呉で建造された戦艦大和。今も九州南西沖の海底に眠るが、呉市ではその10分の1の模型を造って2005年春から公開している。全長26mを超える迫力が人気で、連日大賑(にぎ)わいだ。


日本経済新聞 夕刊 2008年12月4日(木) 掲載

探訪余話

呉と江田島

同じ広島県の瀬戸内海沿いの市でも江田島と呉は大違い。一言で言えば、静と動。昔も今も江田島には静謐な雰囲気があるのに対して呉の方は戦前までの軍港都市が今は産業都市兼観光都市に変わったものの、街は大賑わいである。

江田島の旧海兵校舎は現在の管理元である海上自衛隊が「ここは観光地ではない」という通り、旧海軍兵学校を特に宣伝しているわけではない。とはいえ、事前連絡さえすれば、毎日3回、1時間半ずつ、校舎の外観を案内してくれる。教育参考館は入館して展示資料を見ることも出来る。横須賀などに比べると、限定付きだが、情報公開は進んできた。

一方の呉は、これと好対照。街の至る所に「戦艦大和」が顔を覗かせ、旧海軍の施設を可能な限り、公開している。さながら街中が博物館だ。市役所の建物からして、大和の巨大煙突をかたどったドーム型の建物付き。議会場という。本庁と連結しており、全体も大和の形をイメージしているらしい。隣りの市民会館の屋根も大和の煙突型だし、呉駅から市役所に至るしゃれた通りには大和の錨(いかり)などを何気無く置いてある。

明治の世を迎えるまで、この地域は小さな漁村に過ぎなかった。それが海軍の鎮守府が置かれ、対岸の江田島に兵学校がやってきてがらりと変わった。鉄道が敷かれ人がどんどん入って街は大きく発展した。戦後。占領軍による10年の接収を経て、自衛隊が引き継ぎ、造船や製鋼など民間企業が工場を建て、昔の活気を取り戻した。海軍と戦艦大和がなかったら今の呉は想像できない。その遺産を大事に育てたいというのが変わらぬ呉の姿なのだ。

大和効果

呉市のアレンジしてくれたコースを回ってみると、海軍さまさま、大和づくしの特異な街であることが実感できる。以下、呉の文化財スポットを紹介しておこう。

★ 入船山記念館=旧呉鎮守府司令長官官舎 一見しゃれた洋館に見えるが、実は裏に和館が連結した珍しい建物。歴代の司令長官トップが住まいとして使ったが、正面に見える洋館部分は凝った造り。屋根は天然のスレートに魚の鱗(うろこ)模様を付けている。中の応接間や天井などには金唐草と呼ばれる珍しい壁紙を張ってある。戦後、10年余で接収解除、呉市に譲渡された。老朽化のために修復工事をした後、10年前に国指定の重要文化財となった。呉美術館の隣りにあり、英国風の建築美を楽しめる。

★ 旧海軍呉鎮守府庁舎=呉湾を望む丘の上に建てられた一群のレンガ建物。鎮守府は西日本一帯の海軍の総元締め。入出航する艦船の世話から造船、兵器の製造工場も所有。海軍工廠がその後独立したが、呉のシンボル的な存在は変わりなかった。レンガと御影石を組み合わせた美しい色合い、上部のドームや窓に付けられた弓状のアーチも印象的だ。現在は海上自衛隊が使用しているが、日曜日には見学会があり、外観を側から見ることが可能。

★ 歴史の見える丘=いずれも海岸沿いの旧海軍工廠の中心だった所。それを偲ぶための小さな公園。戦艦大和をはじめ各種の艦艇がこのドックで生まれた。占領軍の接収が終わった後、日本の造船業が復活。昭和31年には英国を抜いて造船量世界一となった。現在も民間の造船会社や海上自衛隊の潜水艦基地として使用中。だから眺めるだけだが、このうち大和の生まれた場所は埋め立てたドックの壁に「大和のふるさと」という看板がある。足元には大和建造の記念碑があり、昔のドックに降りる階段を再現している。

★ 長迫公園・海軍墓地=市内の小高い丘にはなんと墓地まであった。海戦で亡くなった乗組員の記念碑が中心で全部で合祀碑は90もある。中央の目立つ所に戦艦大和の碑。その周囲には戦死した3000人の乗組員の名前が1人ずつ刻まれていた。呉鎮守府がスタートして間もない明治23年、海軍軍人の戦没者の埋葬地となり、昭和46年以降呉市が管理するようになった、旧呉軍港と江田島が手に取るような位置にある。
旧海軍の鎮魂の場所として映画等にも登場する場所である。

★ 大和ミュージアム=街中が博物館の極めつけがこの博物館。正式には呉市海事歴史科学館。呉駅の港寄りに4階建ての大きな建物が平成17年春にできた。入ると、いきなり巨大戦艦が迎えてくれる。10分の1大和の巨大模型。縮小版とはいえ、ビルの外に滑り出しそうな迫力。実際の姿がいかに巨大であったか。今の東京駅並みともいう。

戸高一成館長によれば、この模型は「あくまでも店先に出す看板。奥に大事なものが詰まっている」。なるほど、ビルの中は、大和の生涯から歴史的な背景、さらには大和を生み出した日本の科学技術の力など、歴史と技術に関する展示が盛りだくさん。宇宙戦艦ヤマトのアニメコーナーや船つくりの体験コーナーなども備え、老若男女を問わず楽しめる。

「戦争賛美につながらないか」。この議論が起こることを心配した呉市だったが、杞憂だった。来館者数は初年度170万人。この種の博物館で全国1位を記録。オープンした年は戦後60年やら日露海戦100周年など節目の年。時ならぬ海軍ブームの勢いはやや鈍ったとはいえ、なお年間100万を越える来館者を誇る。博物館の隣りには海上自衛隊が「てつのくじら館」を最近オープンした。本物の潜水艦の中に入って日ごろの自衛隊の活動を理解してもらうことが狙いらしい。大和を見た人の半分くらいはこちらに来ると言う。大和効果と言えるだろう。

文・諸星 龍三

ギリシャ神殿風の江田島教育参考館

華麗な呉鎮守府長官官舎

旧鎮守府庁舎の建物

戦艦大和の建造ドック

大和ミュージアムの入口周辺、
奥はてつのくじら館