明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

転車台に乗り向きを変えるSL。後方は扇形車庫(写真・長田 浩)

所在地:京都市下京区 完成:1914(大正3)年

ひと息

梅小路蒸気機関車館地図

 梅小路蒸気機関車館へはJR京都駅北口バス乗り場から205系統「金閣寺・北大路バスターミナル行き」などで「梅小路公園前」で降り、徒歩5分。京都駅北口から線路沿いを西へ、貨物ターミナル跡地の梅小路公園を30分ほど散歩しながら行くのもいい。
 機関車館の周辺は殺風景でおよそ見るべきものは無い。嵯峨野線(山陰本線)に沿って北へ5分ほどで京都の台所中央卸売市場、その西側の七条通りは庶民的な商店街、市場の東側は島原遊郭のあったところ。大門や最古の揚屋建築「角屋(すみや)」(重要文化財)、置屋の「輪違屋(わちがいや)」などが往時の華やかさをしのばせる。

人気上々「SLの宿」 扇形車庫に18両 地方へも出張運転

梅小路蒸気機関車庫は、ほぼ1世紀にわたり日本の陸上輸送の主役を務めた蒸気機関車(SL)を「生きた状態で」丸ごと保存している産業文化遺産。ユニークな形の転車台と扇形車庫は重要文化財に指定されており、これを中心に関連資料展示場やSL体験乗車などができる博物館「梅小路蒸気機関車館」は古都京都のもう1つの人気スポットである。

円盤がぐるり

蒸気機関車はどうやって向き直るのか――。漫才ネタのような話だが、実は英国で実用化された当時はこれが重大問題だったようだ。蒸気機関車は後部にも運転台のある電車と異なり、終点でぐるりと向きを変えて復路の先頭車両につかなければならない。そこで考案されたのが「転車台」であった。

仕掛けは芝居の回り舞台と似ている。20メートルほどある蒸気機関車の躯体(くたい)が乗れる線路を敷いた円形の台がモーターで回転するようになっている。転車台の周囲には数10本の線路が放射状に延び、それぞれが車庫や点検整備場、貯炭給水場、本線などに通じている。SLは転車台に乗り降りしては自由自在に向きを変え、目指す方向に走る。

SLを比較的狭い面積の中に多数収容し、効率的に出し入れするには、この転車台を備えた扇形の車庫が一番というわけで、明治以来、日本各地に大小さまざまな扇形機関車庫が建設された。

梅小路機関車庫はJR京都駅の西約1.5キロにあり、1914(大正3)年7月末に完成した。設計・建築を指揮したのは東京帝国大学建築科を卒業、12年に鉄道院に就職したばかりの渡辺節。渡辺は梅小路機関車庫、京都駅を造った後に退官、大阪に設計事務所を開き、綿業会館、大阪ビルヂングなどの有名建築物を残した。

14年秋、大正天皇の即位の大礼が京都御所で行われる予定(昭憲皇太后の大喪のため1年延期)だったため、これに合わせようとわずか1年半で完成させるという突貫工事だった。梅小路機関車庫完成に数ヵ月遅れて東京駅が完成、東京と京都の両玄関口が整った。

出発進行!

この車庫は、実際に本線を走れるSLを点検整備する機関区としての機能を持っている。JR西日本の職員が毎日SLの点検整備、試運転などに当たっている。鉄道開業100周年の1972(昭和47)年に梅小路蒸気機関車館が生まれた。「職員がSLの世話を実際にやっているところを一般客が間近に見られる鉄道博物館はここだけ」と機関車館学芸担当の西村忠章氏は言う。

車庫には、13年に日本で最初に量産型として製造が始まった9600形機関車、特急「つばめ」を引っ張った超大型のC62など18両のSLが所属している。そのうち7両はいつでも本線を走れるよう「動態保存」されている。

昨今のSLブームで、各地から梅小路に熱い視線が注がれるようになった。SLを走らせて観光客を呼び込もうと、貸し出しを願う声が高い。それに応えて現在は梅小路所属のC57が「SLやまぐち号」として山口線小郡―津和野間を、C56が「SL北びわこ号」と名乗って北陸本線米原―木之本間を元気に走っている。

「動態保存と一口に言いますが、実際には大変な苦労があるんです」と西村氏。75(昭和50)年に室蘭本線の旅客列車を牽引(けんいん)していたC57と夕張線の貨物列車用D51がそろって引退し、SLは一部の私鉄を除き事実上姿を消した。最盛期の46年にはざっと6000両もあったのだが、ほとんどは解体されて鉄くずとなった。

いまでは、部品を手作りしながら「動かせる状態」を保っているのだという。梅小路の職員は、今日も昔ながらの鉄道員の紺色の制服に身を包み、油にまみれながらSLの手入れに余念が無い。

文・大澤 水紀雄

お召し列車用C58

 

■お召し列車用C58

 SLはちびっ子の人気の的。機関車館には連日、市内はもとより近県から幼稚園児や小学生を乗せたバスが次々にやって来る。体験乗車の「SLスチーム号」に乗って歓声を上げ、扇形車庫に並んだSLを仰いで目を輝かす。


日本経済新聞 夕刊 2008年11月6日(木) 掲載

探訪余話

原爆投下の標的

第2次大戦末期、東京、大阪をはじめ日本の主要都市が次々に灰燼に帰してもまだ降伏しない日本軍部に業を煮やした米国は、ついに原子爆弾の投下によって息の根を止めようと決める。

投下地点をどこにするか。1945(昭和20)年当時、日本の防空網はあって無きがごとしで、米軍機は傍若無人に飛び回り、どこを爆撃しようが望むがままという状況であった。

米軍および米国政府にとって原爆投下の主要目的が戦争終結を早めることであったことは確かであろうが、それと同時に、原爆の破壊力を正確に知ることが以後の世界戦略上極めて重要であった。アリゾナ沙漠などで爆発実験を行い、その恐るべき威力は分っていたものの、この新型爆弾が生きている都市をどのように破壊するかは、実際に落としてみなければ分らない。

そこで米軍は「これまでに通常爆弾、焼夷弾などによって破壊されていない大都市」を投下目標選定の第1条件とした。これにぴたりと当てはまるのが京都であった。その他に広島、小倉、横浜、そして追加として長崎が候補地になった。

京都は回りを山が取り囲む盆地で、原爆の巻き起こす爆風によって効果的に破壊できそうな地形である。しかも当時の6大都市の中では無傷で残されている。原爆投下の理想的な目標都市であり、第1候補にされたという。そして、投下の照準地点は梅小路機関車庫と決められた。原爆は爆撃手による目視投下と定められていたから、はっきりした目標が必要だった。

上空から見下ろせば京都駅から指呼の間にあり、東海道本線と山陰本線の線路が二股に分れ、それをつなぐ形で線路があり三角形を成している。その中に扇形の車庫と真ん丸の転車台。梅小路はまさに標的としてうってつけだった。

もしここに原爆が落とされていたらどうなっただろうか。広島、長崎の例からすると、京都駅はもちろん東西両本願寺、東寺は瞬時に吹き飛び、御所や東山あたりまで火の手が及んだのではないかと思われる。

京都が原爆投下の目標からはずされた理由については、由緒ある古都を破壊することによって、占領後、日本人に悪感情を抱かれることを少しでも軽減しようとしたためだなどと言われているが、真相ははっきりしない。とにかく京都は、5月29日の大空襲で中心部を焼かれてしまった横浜とともに候補地からはずされ、数々の歴史的建造物は無傷で生き残った。

そのおかげで梅小路の扇形車庫も転車台もそっくり残り、全国各地の蒸気機関車関連施設が次々に取り壊された昭和40年代末にも“現役”機関車庫として命脈を保っていた。遅ればせながら「貴重な鉄道文化遺産を残そう」という機運が盛り上がり、ユニークな博物館として再生した。今日も大勢のちびっ子たちを乗せた「SLスチーム号」が勇ましい汽笛を鳴らし、煙りを吐いて園内を走っている。

最古の木造駅舎

機関車庫を中心とした梅小路蒸気機関車館の入口は、木造一部2階建ての寺院か城のような堂々たる和風建築。1904(明治37)年に作られた旧京都鉄道の二条駅舎である。現存する日本最古の木造駅舎ということで京都市指定文化財になっている。

京都鉄道は京都と舞鶴を結ぶ目的で1895(明治28)年に設立された私鉄で、97年に二条─嵯峨間が開通、その2年後には園部まで路線を延ばした。その始発駅である二条駅は当初仮駅舎で開業したが、1904年に現在残っている駅舎が完成した。

この駅舎も最初は当時流行のレンガ造りの西洋館が考えられたが、近くに二条城があり、付近の景観に合致するよう和風建築となった。正面中央の2階建て部分の屋根は入母屋造り瓦葺きで、両端には寺社の屋根にあるような鴟尾(しび)を乗せている。駅舎内部は2階部分が京都鉄道本社事務室、1階が出改札口、待合室、駅長事務室などとなっている。内部の壁は漆喰塗り、天井は寺社風の折り上げ格天井で、優雅なたたずまい。特に特等待合室(貴賓室)は保存状態が良く、往時をしのばせている。

京都鉄道は07年に国有鉄道法により国鉄に吸収され、二条駅舎は以後もそのまま使用されていたが、96(平成8)年に嵯峨野線(山陰本線)立体交差化にともなう新二条駅舎完成で役目を終えた。

しかし「これを壊してしまうのはもったいない」との声が上り、梅小路に移築し、蒸気機関車館の玄関兼資料展示館として再活用することになった。館内には全盛期の梅小路機関区のジオラマをはじめ、パソコンでSLのあれこれを調べる「蒸気機関車百科」、昔の乗車券発売窓口の再現、ミュージアムショップなどがあり来館者を楽しませている。

文・大澤 水紀雄

SLが来た

仮想の標的だった転車台

旧二条駅舎

SLスチーム号