渋沢栄一とレンガの町
JR高崎線・深谷駅の駅舎を出て振り返ると「おっ」と思う。東京駅を模したというから当然だが、確かに似ているのだ。外面も東京駅のような赤煉瓦風である。線路をまたぐ建物なので、本当の煉瓦造りは許可されず、表面の化粧だけにとどめたという。
駅前広場には大きな渋沢栄一の銅像がある。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢は深谷市の出身。ホフマン窯のある(旧)日本煉瓦製造株式会社は、渋沢の主導によって設立された。同市の掲げるスローガン「渋沢栄一翁の顕彰」と「レンガを活かしたまちづくり」は一体のものと考えていいだろう。
渋沢は1840年、同市の北部・血洗島(ちあらいじま)で生まれた。生家は大きな農家で養蚕や染料の藍玉(あいだま)の商いも行っていた。公開されている家は1895年に建てられたもので、いかにも豪農の屋敷という雰囲気である。立派な構えの門を入ると、庭の向こうに瓦葺の大きな2階家が立っている。2階の上にもう1つの低い屋根があるが、そこは養蚕の部屋で、北武蔵の養蚕農家屋敷の形をよくとどめているという。
若い頃の渋沢は尊皇攘夷運動に加わっていたが、24歳のとき一橋家に仕え、慶喜が15代将軍になると同時に幕臣になった。その後、幕府のパリ万博派遣使節の一員として渡欧し、経済の仕組みや産業の様子を実見する。明治改元の年に帰国し、第一国立銀行(現在のみずほコーポレート銀行)を創立するなど、実業界のリーダーとなった。
渋沢はその後も東京ガス、王子製紙など500以上の企業の創立にかかわっているが、故郷につくった企業はただ1つ、日本煉瓦製造だけであった。当時、政府や実業界は新たな煉瓦製造に期待を抱いていた。そのため渋沢は用地の買収で陣頭指揮をとり、工場建設にも力をそそいだという。
ドイツから煉瓦製造の技師・チーゼを招いてホフマン輪窯を作ったことが事業成功への第1歩であった。それともう1つ、工場の設計を辰野金吾にまかせたことも注目に値する。辰野は東京駅や日銀本店などを設計しており、当代ナンバーワンと言える建築界の大御所である。渋沢がいかに工場建設に力を入れていたかの証と言えるだろう。
上敷免の工場から深谷駅までの鉄道敷設も、渋沢の力とアイディアがなければ出来るものではなかった。現在、鉄道は遊歩道になっているが、プレートガーダー橋と呼ばれる鉄橋は当時の最新式で、そのうちの備前渠橋はホフマン輪窯、旧事務所(資料室)、変電室とともに国指定の重要文化財になっている。
渋沢の言葉に「論語と算盤(そろばん)は一致しなければならない」がある。企業は利益を目指すだけではなく、公益のためにも尽力しなくてはならない、という意味だろう。渋沢は広い視野、誠実な人柄によって信奉者が多かった。1916年の喜寿(77歳)の際には、第一銀行(当時)行員の醵金(きょきん)によって欧州の田舎家風、煉瓦造りの建物が贈られている。
「誠之堂」(せいしどう)と名づけられたこの建物は、東京・世田谷区の第一銀行スポーツ施設内にあったが、1997(平成9)年、当時の土地の持ち主である学校の方針で、取り壊されることになる。しかし大正時代を代表する建物として「非常に貴重」と評価されており、建築会社を通じて深谷市への移築が打診された。深谷市がようやく受け入れを決め、文化財保護担当者が建物を調べに行った日は、何と取り壊し予定の前日。誠之堂の回りにはすでに重機が配置されていたという。
当時は煉瓦建築物を移築した例がなかった。そのため誠之堂の壁は「大ばらし」という工法によって3メートル平方ほどに切り分けられた。解体・復元工事が行われた2年の間に「上敷免」と刻印された煉瓦が確認され、「煉瓦、故郷に帰る」と話題になった。深谷市大字起会(現在の大寄公民館敷地内)への移築が完了したのは1999年。その4年後、誠之堂は国の重要文化財に指定されている。
文・今泉 恂之介
東京駅を模した深谷駅
渋沢栄一の生家
移築した福川鉄橋
旧・日本煉瓦製造の事務室(煉瓦資料室)
東京・世田谷から移築した誠之堂





