明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

6号窯の内部は1周約120メートル。18の部屋に分かれているが、現在は区切りがない(写真・三島 叡)

所在地:埼玉県深谷市 完成:1907(明治40)年

ひと息

日本煉瓦製造ホフマン輪窯地図

 煉瓦輸送の専用鉄道跡は現在、全長4キロの遊歩道に変わっている。深谷駅の近くを出発して約2キロ、商店や民家の街並みを過ぎ、福川を渡るとブリッジパークだ。専用鉄道の3ヵ所に日本最古のプレートガーダー橋(I字形鋼板を桁(けた)にする橋)が架けられたが、そのうちの福川鉄橋がここに移築されている。さらに2キロ歩くと、備前渠(びぜんきょ)(用水)にプレートガーダー橋(国の重要文化財)が昔のままに残り、ここを渡れば旧・日本煉瓦製造の工場跡である。道は平坦(へいたん)で歩きやすいが、ホフマン輪窯や資料館(旧事務所)が原則的に非公開になっているのが残念。公開されれば、遊歩道を歩く人が増えるに違いない。

高品質煉瓦、大量生産 帝都の建築支える 渋沢栄一の肝いりで

8000平方メートルの土地に国指定の重要文化財が3つ。それを「土地ごと差し上げます」と言われても、困ったな、というのが本音だったという。元の持ち主は日本煉瓦製造。やむなく頂戴(ちょうだい)したのは埼玉県深谷市である。

日本煉瓦製造(深谷市)が自主廃業したのは2006年6月。その際、関係者を悩ませたのがホフマン輪窯(わがま)6号窯と旧事務所(日本煉瓦資料室)、変電所の今後であった。壊すなら簡単だが、3件とも国の重文だ。保存が絶対の条件である。特に縦56.5メートル、横幅20メートル、ドーナツを横に引き伸ばしたような形の特大輪窯が難問だった。

新井家光深谷市長は言う。「市が引き取るしかなかった。保存のための負担は大きいが、市民は理解してくれるでしょう」。深谷市は長年、日本煉瓦製造から経済的恩恵を受けてきた。地元出身の偉人・渋沢栄一が興した企業、という事情もあった。

ドイツ人技師が建造

日本煉瓦製造は1887(明治20)年、実業界の大立者・渋沢の主唱によって設立された。欧米に倣った近代建築が増え、建築用赤煉瓦(れんが)の需要が飛躍的に高まってきたころである。用地に渋沢の出身地を選んだのは、昔から瓦の製造が盛んで、良質の粘土に恵まれていたためであった。

生産量確保のために導入されたのが、ホフマン輪窯であった。ドイツに従来からあった窯をF・ホフマンが改良、特許を取得したものだという。複数の焼成室を輪状(楕円(だえん))に配置し、順次に、絶え間なく生産していく、という方式で、登り窯などをはるかに上回る製造能力があった。

この窯の内部は、煉瓦積み、アーチ型の穴倉と言えるだろう。6号窯の1周120メートル余りが18の部屋に区切られている。1部屋に詰み込まれる煉瓦は1万8000個。1部屋ずつ順番に火を入れていき、1周18部屋の作業が終わるころには初めの部屋の焼成から窯だしまでが完了。さらに次の焼成の準備もできている、という仕組みである。

ドイツから煉瓦製造技師のN・チーゼが来日し、89年に3基の輪窯(1―3号)が完成した。ピアノ線によって粘土を切るという自動式成型法によって大量生産と高品質が確保され、工場の規模は順調に拡大していく。現存の6号窯が建造されたのは、生産開始から18年後であった。

深谷駅まで専用鉄道

会社創業8年後の1895年、工場のある上敷免(じょうしきめん)(市の北東部)から深谷駅まで約4キロの鉄道が敷かれ、日本初の産業用専用鉄道となった。煉瓦はそれまで利根川などを通じ、船で運び出されていたが、鉄道によってより安定した輸送が確保された。

これらの煉瓦は帝都東京の大型建築に多く用いられている。例を挙げれば、東京駅、旧三菱第一号館、旧丸ビル、東京裁判所、慶応大学図書館旧館、横浜開港記念館、東京・山手線の高架橋――。数え上げればきりがない。

しかし煉瓦の時代は長く続かなかった。日本の建築は関東大震災(1923年)を経てコンクリートの時代へ移っていく。生産過剰を招く輪窯は、無用の長物とならざるを得なかった。

日本煉瓦製造は小規模生産へ、さらに輸入販売へと転換、時代の流れに逆らうことなく事業を縮小していった。そして創業120年を目前にしての廃業。その間、6号窯などの文化財を持ち続けてきたのは、伝統企業の地力というものだろう。

さて、これからどうするか――。深谷市の関係者は輪窯の公開について一様に頭を悩ましている。アーチ型の煉瓦積み構造は相当な強度を保っているようだが、地震のことなどを考えれば、慎重にならざるを得ない。これからが知恵の絞りどころである。

文・今泉 恂之介

煉瓦専用機関車

深谷市教育委員会提供

■煉瓦専用機関車

 上敷免の工場から深谷駅まで煉瓦を運んだ蒸気機関車。これによって安定した輸送が可能になった。利根川などを利用する船の輸送では、数万個の煉瓦を東京まで運ぶのに何十日もかかったことがあったという。


日本経済新聞 夕刊 2008年10月9日(木) 掲載

探訪余話

渋沢栄一とレンガの町

JR高崎線・深谷駅の駅舎を出て振り返ると「おっ」と思う。東京駅を模したというから当然だが、確かに似ているのだ。外面も東京駅のような赤煉瓦風である。線路をまたぐ建物なので、本当の煉瓦造りは許可されず、表面の化粧だけにとどめたという。

駅前広場には大きな渋沢栄一の銅像がある。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢は深谷市の出身。ホフマン窯のある(旧)日本煉瓦製造株式会社は、渋沢の主導によって設立された。同市の掲げるスローガン「渋沢栄一翁の顕彰」と「レンガを活かしたまちづくり」は一体のものと考えていいだろう。

渋沢は1840年、同市の北部・血洗島(ちあらいじま)で生まれた。生家は大きな農家で養蚕や染料の藍玉(あいだま)の商いも行っていた。公開されている家は1895年に建てられたもので、いかにも豪農の屋敷という雰囲気である。立派な構えの門を入ると、庭の向こうに瓦葺の大きな2階家が立っている。2階の上にもう1つの低い屋根があるが、そこは養蚕の部屋で、北武蔵の養蚕農家屋敷の形をよくとどめているという。

若い頃の渋沢は尊皇攘夷運動に加わっていたが、24歳のとき一橋家に仕え、慶喜が15代将軍になると同時に幕臣になった。その後、幕府のパリ万博派遣使節の一員として渡欧し、経済の仕組みや産業の様子を実見する。明治改元の年に帰国し、第一国立銀行(現在のみずほコーポレート銀行)を創立するなど、実業界のリーダーとなった。

渋沢はその後も東京ガス、王子製紙など500以上の企業の創立にかかわっているが、故郷につくった企業はただ1つ、日本煉瓦製造だけであった。当時、政府や実業界は新たな煉瓦製造に期待を抱いていた。そのため渋沢は用地の買収で陣頭指揮をとり、工場建設にも力をそそいだという。

ドイツから煉瓦製造の技師・チーゼを招いてホフマン輪窯を作ったことが事業成功への第1歩であった。それともう1つ、工場の設計を辰野金吾にまかせたことも注目に値する。辰野は東京駅や日銀本店などを設計しており、当代ナンバーワンと言える建築界の大御所である。渋沢がいかに工場建設に力を入れていたかの証と言えるだろう。

上敷免の工場から深谷駅までの鉄道敷設も、渋沢の力とアイディアがなければ出来るものではなかった。現在、鉄道は遊歩道になっているが、プレートガーダー橋と呼ばれる鉄橋は当時の最新式で、そのうちの備前渠橋はホフマン輪窯、旧事務所(資料室)、変電室とともに国指定の重要文化財になっている。

渋沢の言葉に「論語と算盤(そろばん)は一致しなければならない」がある。企業は利益を目指すだけではなく、公益のためにも尽力しなくてはならない、という意味だろう。渋沢は広い視野、誠実な人柄によって信奉者が多かった。1916年の喜寿(77歳)の際には、第一銀行(当時)行員の醵金(きょきん)によって欧州の田舎家風、煉瓦造りの建物が贈られている。

「誠之堂」(せいしどう)と名づけられたこの建物は、東京・世田谷区の第一銀行スポーツ施設内にあったが、1997(平成9)年、当時の土地の持ち主である学校の方針で、取り壊されることになる。しかし大正時代を代表する建物として「非常に貴重」と評価されており、建築会社を通じて深谷市への移築が打診された。深谷市がようやく受け入れを決め、文化財保護担当者が建物を調べに行った日は、何と取り壊し予定の前日。誠之堂の回りにはすでに重機が配置されていたという。

当時は煉瓦建築物を移築した例がなかった。そのため誠之堂の壁は「大ばらし」という工法によって3メートル平方ほどに切り分けられた。解体・復元工事が行われた2年の間に「上敷免」と刻印された煉瓦が確認され、「煉瓦、故郷に帰る」と話題になった。深谷市大字起会(現在の大寄公民館敷地内)への移築が完了したのは1999年。その4年後、誠之堂は国の重要文化財に指定されている。

文・今泉 恂之介

東京駅を模した深谷駅

渋沢栄一の生家

移築した福川鉄橋

旧・日本煉瓦製造の事務室(煉瓦資料室)

東京・世田谷から移築した誠之堂