明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

大正モダンの雰囲気を色濃くとどめたデザイン(写真・長田 浩)

所在地:岩手県盛岡市 完成:1913(大正2)年

ひと息

紺屋町番屋地図

 紺屋町は江戸時代に染め物屋(紺屋)が多く栄えていた町で、漆喰(しっくい)の土蔵や商家も数多く残っている。番屋の斜め向かいには、「元々はゴマと南京豆だった」という南部煎餅(せんべい)の老舗、その並びには「鉄瓶は受注生産」という南部鉄器の店もある。江戸時代からの土蔵が残る荒物屋も趣が深い。
 この界隈を散策する楽しみが建築ウオッチング。東京駅の原型ともいえる岩手銀行中ノ橋支店、日比谷公会堂のもとになった岩手県公会堂などが集まっている。ロマネスク風の外観を持つ、もりおか啄木・賢治青春館は、旧第九十銀行である。盛岡城跡石垣が見事だ。

みちのくの城下町で 安全を見守り九十年 大正モダンの火の見櫓

社会の発展や都市の成長につれて消えゆくものがある。例えば渡し船、町中にあるものでは、火の見櫓(やぐら)だ。

2005(平成17)年の暮れに使命を終えた紺屋町番屋は盛岡市の中心部、中津川の畔(ほとり)にある。1913(大正2)年夏に改築されて以来、92年間も地域の安全を守り続けた。

淡い灰色のペンキ塗りの外壁と赤い屋根に望楼を載せた木造2階建ての番屋は、東側がかつての奥州街道に面し、南側が岩手県公会堂などに通じる道に面している。屋上の望楼は6角形で、胴体部分に田の字形の明かり採り窓がある。塔上に風見鶏の飾りを頂く。

立原道造が見た櫓

「夕ぐれ 火の見櫓に火がともる 僕の心は それを見ている」。詩人で建築家の立原道造は『盛岡ノート』にこう記した。38(昭和13)年秋、盛岡市北部の山荘に滞在したときの詩だ。

多分、立原の目には、中津川の手前の油町、向こう岸の紺屋町、さらに北上川の手前の鉈屋町、向こう側の仙北町など、10本の火の見櫓が映っていたのではなかろうか。

盛岡は火の見櫓の多い町だった。それも、ただ柱を組んだだけの櫓ではなく、町家の上に望楼を載せる堂々としたものだったため、ひときわ目を引いた。そのような造り方をしたのは、寒さの厳しい土地柄のうえに、明治時代、1500戸を焼いた大火や幾つもの橋を流された水害に見舞われたことなどが関係していたと思われる。

ちなみに、紺屋町番屋のそばにある与の字橋は、番屋にちなむ命名なのだという。現在の盛岡市消防団の第5分団は、江戸時代に火消しの「田組」として発祥したものが「よ組」に改称された。そして明治時代の半ば、洪水で流されてしまった橋が、当時芝居小屋を経営していた「よ組」組頭の尽力によって架けられたという来歴による。

紺屋町番屋が建て替えられたころの盛岡は建築ラッシュで、斬新な建物が相次いで誕生した。11(明治44)年には東京駅を手掛けた辰野金吾と葛西萬司の設計によって旧盛岡銀行本店(現在は岩手銀行中ノ橋支店)が竣工(しゅんこう)、27(昭和2)年には日比谷公会堂を手掛けた佐藤功一の設計によって岩手県公会堂が完成した、というような時代だった。

当時はまだ、消防と警察が一体的に活動していた。それをよく物語るものに、1895(明治28)年に建てられた旧盛岡警察署がある。警察署の屋上に紺屋町とよく似た形の望楼を載せ、横手に消防団のポンプ置き場などがあった。火の見櫓を備えた交番もあったし、紺屋町番屋でも「巡査が消防団員で、番屋に住み込んでいた時期があった」という。

「よ組」の纏

紺屋町番屋は、1階の東南部分が花崗(かこう)岩の石畳で、ここはポンプやホースなど消防用具の置き場として、また車庫として利用された。その西側に板張りの事務室が続いており、この造り方は大正時代の木造洋風事務所建築の典型とされている。そして、2階には会合の多い番屋としての機能を考えた30畳の広間と6畳の和室がある。

望楼へは螺旋(らせん)状の梯子(はしご)を上っていく。石川啄木が「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし」と歌った岩手山が望め、北上川や中津川が眼下にあった。消防団員はその6面の窓から、1日3交代で見張っていた。

だが、周辺にオフィスビルやマンションなど視界をさえぎるものが増えたこともあり、消防団は番屋の閉鎖に踏み切った。

1階には、江戸時代に交流があった神田の火消し「よ組」から伝わったという纏(まとい)が立ち、長押(なげし)には提灯(ちょうちん)が掛かる。みちのくの住民の郷土愛と防災にかける意気込みをうかがわせる。

文・須藤 公明

大正初期の紺屋町界隈

渡辺敏男・〈盛岡〉設計同人代表提供

■大正初期の紺屋町界隈

 完成したばかりの望楼が見える紺屋町界隈(かいわい)。写真が撮影された1914(大正3)年ころは、一帯が近代化の波に洗われ始めた時期。やがて番屋の手前に銀行が建ったりしていく。


日本経済新聞 夕刊 2008年10月2日(木) 掲載

探訪余話

奥行き深い街

散策には頃合いの広さで、食べ物に工芸品、建造物見物など、様々な楽しみ方ができる町――それが、盛岡だった。これが取材の実感である。

人物研究となれば、「平民宰相」と呼ばれた原敬、海軍大臣だった米内光政、英文で『武士道』を著した新渡戸稲造やアイヌの叙事詩「ユーカラ」の紹介で知られる金田一京助など、多彩な顔が揃っている。石川啄木や宮沢賢治が青春を過ごした地でもある。その足跡をたどる「盛岡市先人記念館」などの施設もよく整備されている。

恥ずかしい限りだが、盛岡がこんなに多彩な、奥行きの深い街であることを今回の取材で初めて知った。かつて訪れた折には、あわただしくインタビューをこなし、岩手県庁の近くの石割桜を眺め、わんこ蕎麦を賞味した。

しかし、それでは表面を撫でたことにもならないことを心底、知らされた。やはり宿泊し、夜は夜で酒を酌みながら地元の人々の話を小耳に挟み、昼は昼でお茶を戴きながら産品の歴史、苦労話などに耳を傾けるのがいい。それが本当の旅なのではないかと思った。

皮切りは、「南部せんべい」だった。昭和の初期に店を構えた老舗が、紺屋町番屋の斜め向かいにあったからだ。店内の一画に懐かしい感じの洗濯機や駄菓子が鎮座しているそこで、「南部せんべいというのは、元々はゴマとピーナッツだったんです」などという話を伺いながら、「冷麺味」など現代風のものを味見し、香ばしさが好ましいものを幾つか選ばせてもらった。ちなみに、南部せんべいの起源には諸説があり、南北朝の時代、鉄兜を鍋の代わりに、そば粉とゴマを焼いたものが始まりという説もあるのだとか。

その並びに控えていたのが、南部紫と茜(あかね)しぼり染めの専門店。紫紺染はムラサキ、茜染はアカネという植物の根から取った染料で染め上げる草木染なのだが、深みのある色が心に染みる。 かつて、南部藩政時代には手厚い保護の下に作られていたものが、明治になって途絶えてしまった。それを、大正時代に新しいデザインを創るなどの工夫で甦らせたのだという。10数回も染めを重ねた生地を数年は寝かせておくなど、手間と時間の掛け方には頭が下がる。

その斜め向かいが、白壁と貼り瓦、そして格子戸の低い軒の荒物屋の「ござ九」。店先には箒(ほうき)が並び、店内には竹で編んだ籠などが並んでいる。江戸後期から明治にかけて造られた土蔵などもあり、かつての豪商の面影を今に伝えている店舗だ。

荒物屋を出て右手を見ると、南部鉄器の店があった。棚に並んだ鉄瓶を見やりつつ、「イボイボの付いたものは洗うのが大変では…」ときいたところ、即座に「鉄瓶は洗わないのです」と言われた。自在鉤に吊るされ、鉄瓶が囲炉裏でいい音を立てている光景を想像した。

こうしてブラブラ歩いて行くと、前面に列柱があり、軒蛇腹の装飾があるビルに出会う。昭和2年に建てられた旧盛岡貯蓄銀行(現在は盛岡信用金庫の本店)である。その先の四つ角に、東京駅と同じ感じの、赤煉瓦と白い窓の建物がある。東京駅を設計した辰野金吾と葛西萬司が手掛けたもので、旧盛岡銀行(現在は岩手銀行支店)だ。さらに大通りを渡った先の右手が、「もりおか啄木・賢治青春館」となっている、旧第九十銀行の建物だ。「かつて、この一帯は盛岡のウォール街と呼ばれていた」のだという。

こうして紹介していけば際限がない。とは言え、番屋から青春館までは、距離にして1キロもないだろう。このほか中津川には慶長年間に造られた青銅の擬宝珠が付いた橋も架かっているし、日比谷公会堂そっくりの岩手県公会堂もある。

おいしい水が湧き、野菜を洗う場所が設けられている小屋掛けの共同井戸、清龍水もある。都会では消え失せた生活空間が、しっかりと生き続けているのだ。盛岡城は明治維新後、天守閣などが取り壊されてしまったものの、石垣は見事で、新緑や紅葉も美しいに違いあるまい。

取材で難儀したのは、建築当時の番屋の写真を手に入れることだった。消防団には古いものが残っておらず、市役所に問い合わせても、「当方には…」という回答だった。ただ、「郷土資料展示室のある盛岡中央公民館なら…」と示唆され、そこで学芸主査の大沼氏のお世話になり、地元の建築家、〈盛岡〉設計同人の渡辺敏男氏を紹介され、ようやく探し当てることができた。渡辺氏は「町屋を宿泊施設に改造したりもしている」のだという。次回はぜひ、そこに泊まらせていただこうと思っている。

文・須藤 公明

ビルに囲まれた番屋

番屋2階の30畳の広間

老舗の雑貨商「ござ九」

旧盛岡銀行

盛岡城址の石垣.