明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

1912(明治45)年に完成した五翼放射状舎房の中央見張所(写真・三島 叡)

所在地:北海道網走市 完成:1890(明治23)年

ひと息

網走監獄地図

 博物館網走監獄の名物は、500円の「監獄食」。1896(明治29)年建造の旧二見ケ岡農場に食堂棟があり、明治時代の囚人服を着た人形が監視下で食事をする様が再現されている。その脇のテーブルで、麦6白米4のご飯に糠(ぬか)サンマ、切り干し大根、みそ汁などの簡素な監獄食が食べられる。刑務所と違い温めて出されるので、昼食にと結構な人気だ。
 夜はもう少し贅沢(ぜいたく)にという人には、「網走ざんぎ丼」がお勧め。オホーツクサーモン(カラフトマス)普及のため、市内の飲食店がさまざまに工夫して提供しており、税込み1000円未満がルールとか。

最果ての重罪監獄 受刑者が獄舎建設 道東開拓の礎に

網走といえば刑務所である。が、地元にとって好ましいイメージではない。戦時中、刑務所名変更の請願を、網走町(当時)が出した。衆議院を通過したものの、貴族院では不採択、網走刑務所の名はそのまま続くことになった。

戦後の高度成長期になって、高倉健主演の「網走番外地」シリーズの人気で、刑務所は全国区の観光名所に躍り上がった。その後、刑務所の全面改築に伴い、旧刑務所の教誨堂(きょうかいどう)、獄舎などを移築、復元した「博物館網走監獄」は今年、開館25年で通算入館者1000万人を超えた。

過酷な労役で犠牲者

観光に貢献しただけではない。120年近い歴史をもつ網走刑務所は道東開拓の拠点であり、町の発展の礎だったといってもいい。

西南戦争などで急増した服役囚収容のため、明治政府は北海道に仏中央監獄をまねた樺戸、空知、釧路の三集治監を建設した。同時に道内横断道路開設に受刑者を使役することを計画。旭川―網走間を担当した釧路集治監は重罪犯1300人ほどを順次網走に移送、1890(明治23)年、受刑者に建てさせた網走囚徒外役所が網走刑務所の始まりだった。

「彼等は暴戻の悪徒であって、尋常の工夫では耐えられぬ苦役に充て、これにより斃(たお)れても、監獄費の支出が減るわけで……」(「北海道三県復命書」要約)

内務卿(ないむきょう)山県有朋が唱えた懲戒主義論に基づく労役は過酷を極めた。受刑者たちは網走から北見峠まで約150キロの開削工事に従事した。食糧や医療も不十分な山中、鎖でつながれての重労働で、1100余人のうち212人が病気などで死亡、その場に葬られたという。

網走の服役囚は農作業もした。当時、道内には8000人の受刑者がおり、彼らを収容し、監獄経費を節減するために、自給自足の農業監獄とされ、屈斜路湖畔(二見ケ岡農場)を開墾した。こうして道路が開通し、農地が開かれた網走に、開拓移民や屯田兵が次々に入り込み、北辺の寒村は急速に開けていった。

外役所から網走分監、網走監獄と名を変えて間もない1909(明治42)年、山火事の飛び火とされる出火で、刑務所はほぼ全焼。再建にも服役囚が使われ明治末年に復旧、煉瓦(れんが)工場を新設し、近代的な煉瓦塀で囲われた。

1922(大正11)年、行刑刷新で網走刑務所と改称、現在に至るが、服役囚は戦時中、南洋テニアン島や道内の飛行場建設などに従事、戦後も近隣の漁港、道路改修に携わっている。高い塀で閉ざされた刑務所だが、創設以来、時代と共にさまざまな形で社会とかかわっているのである。

旧刑務所を移転公開

現在の網走刑務所は網走市開基100年の翌1973(昭和48)年から12年がかりで全面改築されている。このため旧刑務所の明治期の建築は、83年、刑務所を見下ろす天都山中腹に開館した「博物館網走監獄」に移された。明治末年建造の教誨堂、見張所からすべての獄舎が見渡せる木造の五翼放射状舎房、二見ケ岡農場の建物などであり、新刑務所に残された赤煉瓦造りの正門、鏡橋なども、そっくりに再現してある。

重罪犯の収容所であり、生きて帰れぬと恐れられた網走刑務所も40年前に短期受刑者の施設に変わった。1908(明治41)年に施行、人権上問題ありとされた監獄法も、昨年新法に替わって廃止され、受刑者の処遇も改善されている。

秋つばめ赦(ゆる)さるる日は尚遠く

呼べど呼べど野分に夢の母遠し

思案一日壁に氷花(ひょうか)の咲く獄に

網走刑務所では戦後、受刑者らによる文芸誌「樹氷林」が創刊された。そこに寄せられた俳句には、時代が変わり、刑務所の内実は変わっても、囚われの身の変わらぬ叫びが詠み込まれている。

文・石田 修大

番外地の入り口

 

■番外地の入り口

 網走監獄が刑務所と改称された1922(大正11)年、受刑者の手で完成した赤煉瓦の表門(正門)。現在も網走刑務所に残され、監獄時代の木造の旧表門も市内永専寺の山門として使われている。


日本経済新聞 夕刊 2008年9月25日(木) 掲載

探訪余話

博物館 網走監獄

網走駅前から網走刑務所や博物館網走監獄などに行くには、網走バスの施設巡り線が便利だ。刑務所、網走監獄のほかオホーツク流氷館、北方民族博物館など市内観光名所を巡回している。

バスに乗って分かるのは、これら施設の中でも網走監獄が1番の人気なことだ。その網走監獄での人気スターは、何と言っても脱獄囚。監獄の出入りに使われた鏡橋を渡ると、正門の前を竹箒で掃いているのは、明治の脱獄王、五寸釘の寅吉こと西川寅吉の人形。三重監獄を皮切りに6回も脱獄を繰り返し、逃走途中に五寸釘を踏み抜いたまま、12キロ走ったと、脇の立て札に書かれている。1901(明治34)年、網走監獄に移送されてからは、模範囚として過ごしたそうだ。

戦前、戦後にかけて4度の脱獄を繰り返し、脱獄魔と呼ばれた男を描いた吉村昭の『破獄』は、網走刑務所に収監されていた白鳥由栄がモデル。青森、秋田に次いで戦時中の1944(昭和19)年、彼が3度目に脱獄したのが五翼放射状舎房の第4舎第24房だった。扉の視察孔の鉄格子を揺すり続けネジをゆるめて外し、天窓を頭突きで破って逃げたという。

展示されている24房は鉄格子が外され、舎房の天井には天窓から抜け出す寸前の人形が展示され、白鳥の脱獄を再現している。その斜め前の房には、1935年から40年まで共産党の徳田球一が収容されていたと表示されており、「骨のずいにしみとおるあの言語に絶する寒さは、6年間の網走生活の記録をいまもなおつめたく凍りつかせている」(『獄中18年』)と著書の一部が紹介されている。白鳥が網走を脱獄したのも、寒さに耐えられなかったからともいわれている。

刑務所の博物館など殺風景で興味を引きそうにないが、それだけに網走監獄では様々な工夫を凝らしている。あちこちに服役囚の人形を置いて、監獄の日常を再現して見せるのもそうだし、監獄食、煉瓦造りなどの体験も見学者の人気を呼んでいる。また1日4回、女性ガイドによる約1時間の館内ツアーを行っており、網走監獄の歴史をはじめ獄舎ならではの建築上の特徴、服役囚の入浴方法など、実際に使われていた舎房などを前に説明してくれる。

館内ツアーの後尾につきながら、公開されている獄舎に入ってみると、なにか尖ったもので書いたのか、木の壁に文字が刻まれている。なにが書かれているのかはわからなかったが、何年間か獄舎に閉じ込められた服役囚の強い思念が感じられる。

獄舎を出るとツアー客は先に行っており、長い舎房にただ1人残されてしまった。人気のない舎房には4半世紀以前の服役囚の汗や体臭が漂っているようで、急にゾクゾクッと来て、大股でツアー客を追いかけた。

文・石田 修大

正門を掃除する五寸釘の寅吉

天窓に取り付く脱獄魔

見学者の体験用獄中食

監獄ツアー

受刑者が思いを刻み付けた獄舎の壁