明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

重要文化財だが関西電力の現役発電所(写真・多田 征樹)

所在地:長野県南木曽町 完成:1923(大正12)年

ひと息

読書発電所地図

 「木曽路はすべて山の中である」とは島崎藤村の長編小説『夜明け前』の有名な書き出し。川と並行する旧中山道、木曽路の見どころは妻籠宿と馬籠(まごめ)宿だ。南木曽町にある妻籠宿は中山道六十九次の42番目宿場。早くから町並み保存が行われ、江戸時代の面影をよく残す。
 43番目の馬籠宿(岐阜県中津川市)は信州と美濃の国境で、石畳の坂道の両側に家々が並ぶ。『夜明け前』の舞台で、宿場町の中ほどに島崎藤村の生家を保存した「藤村記念館」がある。妻籠から旧街道で峠を越えてたどりついた馬籠宿の入り口にある高台からは恵那山や美濃の平野が望める。

電源開発の先駆 福沢桃介の執念 木曽谷に夜明け

「男伊達ならあの木曽川の流れくる水止めて見よ」と木曽節がうたう。止めるどころか激流を電気に変える電源開発を大正時代に成し遂げた男がいる。「相場師」から転身し電力事業で成功した福沢桃介である。

旧中山道の宿場町、妻籠(つまご)は、昔の家並みを美しく保存し観光客が絶えない。そこからほど近い木曽川の谷あいに読書(よみかき)発電所がある。

電力王

背後の山を伝う3本の鉄管を背負った鉄筋コンクリート造り煉瓦(れんが)壁の水路式発電所だ。完成時は4万700キロワットと当時では最大の出力を誇った。半円や四角の明かり採り窓はアールデコ調で、配置もリズミックだ。あめ色の古い窓ガラスがはめ込まれていて、大正ロマンの片鱗(へんりん)をうかがわせる。

桃介は1917(大正6)年から26年まで、木曽川沿いに7つの発電所を造り、長さ200キロの送電施設で関西地方に電気を供給し「電力王」と呼ばれた。

山谷の多い日本の地形を利用した水力発電は、昭和30年代に石油火力が普及するまで電力エネルギーの主役であった。木曽川水系発電所は「電気の時代」に大きく貢献し、中核の読書発電所は近代化遺産として1994(平成6)年に国の重要文化財に指定された。

福沢諭吉の婿養子となり、北海道炭鉱鉄道に入社した桃介(旧姓岩崎)は、間もなく肺結核をわずらい療養生活にはいる。持ち前の才気と米国留学で仕込んだ先見性。病床にいて株商いに精を出す。日清・日露の戦争をチャンスに大儲(もう)けして「相場師」の名をはせた。

経営不振の名古屋電燈の株を買い占めたことがきっかけで電力事業に関心を持つ。同社の役員として注目したのが足元の木曽川水系であった。急峻(きゅうしゅん)な山を縫って落差大きく、水量豊か。しかも中央西線の開通で輸送手段が整っている。電源開発にはうってつけだ。

1914(大正3)年、社長に就任した桃介は発電所建設にのめりこんだ。ニッカーボッカー姿で中央アルプスや御岳の奥地にはいり現地踏査もした。20年には関西電力の前身となる大同電力を設立した。病床で株価をながめる虚業家から実業家への大変身である。

広助と貞奴

開発に地域住民の反対はつきもので、木曽川では「川狩り」と呼ぶいかだ流し業者の抵抗にあった。反対運動を先導したのが妻籠宿の本陣当主、島崎広助。作家、島崎藤村の実兄である。藤村の代表作『夜明け前』の主人公のモデルになった父、正樹の志をつぎ林業関係者の権利のために新政府と交渉したつわものである。

広助は水利権をめぐる桃介の強引な手法を批判した。金や暴力がからんだ抗争があったようだが父と同様、時代の流れには勝てず、失意のうちに引退した。

逆に、桃介を支えたのがマダム貞奴(さだやっこ)こと川上貞奴である。桃介が慶応の塾生、貞奴が芸者置屋の養女だったころからのなじみだった。伴侶の俳優、川上音二郎に先立たれ女優を引退したのち桃介のもとに身を寄せた。

JR南木曽(なぎそ)駅の木曽川を隔てた山麓(さんろく)にしゃれた洋館がある。桃介が発電所建設の足場にした山荘だ。館は2人の愛の巣であり、外国人技師などをもてなす社交の場であった。

いまは「福沢桃介記念館」として保存され、老境の2人が並んだ写真や貞奴愛用の品々、桃介揮毫(きごう)の書などが展示してある。

館の裏手に花桃の巨木がある。桃介がドイツから移植した木で、その種があちこちに植えられ立派に成長した。南木曽から飯田方面に向かう国道沿いの「花桃街道」は赤、白、ピンクの花を同時につけ人気がある。

日本の水力発電比率は10%に落ちたが、観光名所の「桃介橋」とあわせ、桃介・貞奴コンビが木曽の谷に残した遺産である。

文・名和 修

桃介橋

 

■桃介橋

 大同電力が1922(大正11)年、読書発電所の建設資材運搬のために木曽川に架けた橋。長さは247メートル。木製の橋げたをもつ吊(つ)り橋としては最大級。別名「桃之橋」。一時は廃橋となったが93年に復元整備された。


日本経済新聞 夕刊 2008年9月18日(木) 掲載

探訪余話

木曾谷彩る人間ドラマ

読書発電所の「読書」は「よみかき」と読む。特異な名前は大正時代にこの発電所が立地した読書村(現在の南木曽町)に由来する。

明治7年、予川(よがわ)、三留野(みどの)、柿其(かきぞれ)の3村が合併したおりにそれぞれの頭文字をとって「よ・み・かき」とし、文明開化のこれからは読書き算盤(そろばん)すなわち、教育が肝要というので「読書」の文字をあてたという。

発電所は3本の大口径給水管がおりており、落差は112メートルある。かつてはその管の裏手を中央西線が走っていたが、現在はトンネルになっているので車窓から発電所は見えない。そのかわり、国道から木曽川の谷の向こうに排水側の建屋が見える。

桃介は工期わずか2年で完成、上流の桃山発電所と同時に竣工させた。大型の重機などのない時代の突貫工事であった。

それにしては、建屋にはまるでホテルのようなしゃれた飾りを施したのはダンディスト桃介のこだわりだろうか。発電機は米ウェスティングハウス社製を輸入した。米国留学による見聞知識をフルに生かしての事業である。

恵那峡にある大井発電所(大正13年12月竣工)はわが国で最初のダム式で資金も膨大であった。おりから関東大震災後の不況で資金調達がままならず桃介は渡米して大同電力(現在の関西電力)の外債を募集、当時の日本円にして2億円の調達に成功した。

一方、ダム建設も難工事だった。桃介は山荘を基地にし、現場に頻繁に足を運んだ。あるとき、陣中見舞い、と称して工事用のワイヤーロープでつるした空中ケーブルで降りると言い出した。危ないから、と社員が止めるなか、「私がご一緒しましょう」と進み出たのが愛人の貞奴。その気迫に桃介もたじろいだというエピソードがある。

貞奴が洋装で今の南木曽の駅におりたつと黒山の人だかりができたという。サイドカー付きのオートバイに乗り工事現場へでかける姿も目撃されている。名古屋の別邸「二葉荘」やこの山荘で貞奴は内外の賓客を芸妓時代に仕込んだ社交術でもてなした。得意の英語も役立った。桃介にとって貞奴はパトロンと愛人という関係よりパートナーに近かったようで、彼女の後押しが心の支えになった。

『夜明け前』の世界をひきずった村人にとって2人の存在はしゃくの種だったろう。金にあかせ、時には暴力団まがいを使って水利権を奪い取る強引さ。工事用の橋に自らの名前を付け、「お妾」を伴って渡り初めをする傲慢ぶり。疎ましいのは当然である。

村人の心情を一身に背負って抵抗したのが妻籠宿本陣の最後の当主であった島崎広助。江戸時代に尾張藩の厳しい規制下にあった木曽の山はご一新(明治維新)後に村民の期待を裏切り、官営をへて皇室の御料林となった。広助は新政府とかけあい、御下賜金を受けるという形で解決をみたが、山は返ってこなかった。

発電所建設をめぐる水利権問題で広助は大正8(1919)年に木曽の人々を代表して交渉に就くが、桃介の切り崩し工作に遭って引退、本陣も引き払う。木曽ヒノキなどの木材を運搬する「川狩り」(いかだ流し)が約1000人失業したという。代替として桃介は森林鉄道を敷設している。

広助は自分の娘が弟(藤村)の子を産むという醜聞にも直面、緑内障を患い、水利権の賠償問題に区切りが付くと本陣をたたんで上京する。妻籠の本陣跡は平成7年に、江戸時代の間取り図をもとに復元されたものだ。

馬籠宿の目玉、藤村記念館は島崎藤村の生家(明治28年焼失)跡に地元住民が建てた文学館である。昭和22年、谷口吉郎の設計で建てられた。『嵐』『夜明け前』などの原稿、遺愛品などを所蔵。展示している。

昼なお暗い木曾谷の狭い地域に、文豪一族や名女優、そして日本の電力事業を築いた経済人が入り組んで展開した人間ドラマは日本の近代史を彩るひとこまである。

文・名和 修

アールデコ調の装飾

福沢桃介記念館

桃介と貞奴(同館の展示写真)

妻籠宿

馬籠宿