明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

長崎造船所で建造した戦艦「土佐」に似ていることから軍艦島と呼ばれるようになった(写真・多田 征樹)

所在地:長崎市高島町 完成:1891(明治24)年

ひと息

端島(軍艦島)地図

 閉山後、無人の軍艦島の所有は三菱から高島町(当時)、長崎市と変わったが、最近まで放置されたままで、崩壊の恐れもあり立ち入り禁止。それでも町ぐるみ閉山当時のまま残っているのは珍しく、長崎港大波止ターミナルなどから遊覧船で島を1周するクルーズが行われている。
 船からの見学とはいえ、島内の様子は十分に見て取れ、破れたアパートの窓が部屋ごとに口をあけて叫んでいるようで、もの悲しい。クルーズは春から秋にかけ、週末限定などで行われ、荒天時は欠航することもあるので、事前問い合わせが肝要。

海上の蜃気楼都市 炭鉱の活況を封印 廃墟が語る生活史

船が長崎港を出ると、右手に伊王島、高島と続き、やがて中ノ島の先に、うっすらと蜃気楼(しんきろう)のような海上のビル群が浮かび上がる。「軍艦島」の通称で知られる端島(はしま)の旧鉱員アパートである。

34年前(1974年)の早春、長崎市内の大学生だった坂本道徳さんは、生活費を無心するため、いつものように両親の住む端島に渡った。ところが、桟橋に両親がよそ行きの格好で立っている。とまどう坂本さんに、母親は「今から広島に行く」と答えた。

閉山3ヵ月で無人に

この年1月、端島炭鉱は閉山、4月下旬には全員が離島し、以後無人島になる。炭鉱で働いていた坂本さんの両親も、あわただしく島を離れるところだったのだ。筑豊の炭鉱で生まれ、小学校6年から高校まで端島で暮らした坂本さんも、そのまま両親と船に乗り込み、島を後にした。

端島は水成岩の浅瀬にすぎなかったが、江戸後期に石炭が発見され、明治に入って旧藩主の鍋島氏が炭鉱として開発した。1890(明治23)年、三菱が買い取り、翌年から高島炭鉱の支鉱として採炭を始め、八幡製鉄所向けの原料炭などを供給した。

南北約480メートル、東西約160メートルの小さな島。しかも、当初はその3分の1ほどの規模に過ぎなかった。三菱は第2、第3竪坑(たてこう)を開削し、間もなく高島炭鉱を上回る出炭実績を上げた。それに伴い、次々に浅瀬を埋め立て、護岸堤防を拡張、海上都市を築いていった。

高層アパートのはしり

炭鉱の隆盛に従い、鉱員、職員も急増、小さな島だから収容施設は上に伸ばしていくしかない。1916(大正5)年には国内最初期の鉄筋コンクリート造り7階建てのアパートを建設、18年には日給社宅と呼ばれた9階、7階建ての5棟も建てている。閉山時には社宅を中心に2―9階の建物が40棟ほどひしめいていた。

戦中、戦後を通じて優良鉱として成長し、終戦直後に4022人だった島内人口は、ピーク時の1960年には5267人。東京区部の9倍強の人口密度で、世界一の過密都市になった。

60年代半ばに端島にやってきた坂本さん一家は、約340世帯が暮らす9階建ての65号棟最上階に住んだ。5人家族で6畳と4畳半2間、父親がベランダに畳を敷き、1畳の勉強部屋を造ってくれたという。

65号棟の屋上には幼稚園があり、隣の7階建てが小中学校。狭い島内だが公民館や病院、共同浴場、映画館、商店、飲み屋、パチンコ店から神社、寺院までそろっていた。7、9階建てでもエレベーターはなく、一部社宅には各階に渡り廊下があって、行き来ができた。「緑なき島」といわれたが、住人は屋上に土を盛って花や野菜を育てた。

交代勤務での24時間操業、狭隘(きょうあい)な住環境など、島での暮らしが快適なはずもないが、坂本さんは著書で、こう書いている。

「この島に住んだ人たちの多くは、住みやすかった、みんな仲が良かったと言う。狭い空間で人と人が快適に生きるために、いさかいや揉(も)めごとを最小限にくいとめる努力をしてきたからではないだろうか」(『軍艦島の遺産』)

離島から4半世紀後の1999年、中学の同窓会で里帰りした坂本さんは、旧友とともに端島に渡った。かつて住んだ部屋は窓も破れ荒れ果てていたが、たんすや火鉢は置いたまま、教科書やノートも残っていた。

思い出をいい形で残したいと考えた坂本さんは、長崎大教授らと「軍艦島を世界遺産にする会」を設立、写真展や見学会で軍艦島のPRに余念がない。長崎市もこの夏、島内に200メートルほどの見学通路を整備する工事に着工、来春以降、部分的に上陸、見学を許可する予定という。

文・石田 修大

マンモス社宅の中庭

「軍艦島を世界遺産にする会」提供

■マンモス社宅の中庭

 65号棟は島内最大のマンモス社宅。スペースを有効利用するため、コの字型の中庭は児童公園になっており、1日中子供たちが遊び回った。夕方にはあちこちの部屋から「ご飯ばーい」と呼ぶ声が降ってきた。


日本経済新聞 夕刊 2008年9月11日(木) 掲載

探訪余話

長崎・出島の前の中島川を渡るとすぐ左手に長崎港に面する大波止ターミナルがある。その一角に炭鉱の島・高島や軍艦島(端島)を紹介するコーナーがあり、軍艦島の模型が展示されている。来春以降に予定されている一部公開や世界遺産登録に向けての動き、それに廃墟ブームもあずかって、軍艦島の人気はなかなかのものである。

8月初め、ターミナルを出発した軍艦島クルーズの遊覧船には、かつての端島炭鉱を知っているであろう年配の男性客らに混じって、高校生の男女10数人が乗りこんだ。佐賀大学主催の「石炭産業を軍艦島に学ぶ」に参加した高校生であり、若い人たちにこそ知ってほしいという「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳さんも説明役として同道した。

船内でマイクを手にした坂本さんは、自分が住んでいたころの軍艦島の暮らしを語り、端島炭鉱の歴史を説明する。途中の高島は坂本さんが軍艦島から通った高校のあったところだが、その校舎も今年取り壊されたという。軍艦島に到着すると、船はゆっくりと島の周辺を一周、乗船客は一斉にぽっかり開いた窓を並べる社宅などを撮影し、海上の廃墟に見入った。外海に面しているため、長崎を直撃した台風に何度も襲われ、護岸が崩れたこともあり、島に1つの映画館は倒壊してしまった。

端島が軍艦島と通称されるようになったのは大正期だが、島に住んでいた人たちは今でも端島といい、軍艦島と呼ぶのは外部の人だという。坂本さんが同窓会で島に上陸した際にも、同窓生の半数弱は上陸を拒み、対岸の野母崎から島を眺めたそうだ。島の人たちにとって、廃墟と化した端島は懐かしさばかりではなく、かつての暮らしにまつわる複雑な思いが秘められているのだろう。

「端島に住んでいた人たちには、島は生活の場であり、客観視は難しい。逆に外部の研究者らは軍艦島として客観的に歴史的意義を見出す。島の保存・公開には両方の視点が必要なんです」

港に戻る船の中で、坂本さんはそういって、遠ざかる島を振り返った。

文・石田 修大

大波止ターミナルの軍艦島模型

軍艦島のかつての桟橋(「軍艦島を世界遺産にする会」提供)

高校生らに島の暮らしを語る坂本さん

荒れ果てた島のアパート