明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

中央が慰霊式典場の講堂。周囲に高層ビルが増えてきた(写真・多田 征樹)

所在地:東京都墨田区横網町公園内 完成:1930(昭和5)年

ひと息

東京都慰霊堂地図

 JR総武線・両国駅の北側は、独特の雰囲気を持つ文化的な地域である。線路に沿って2つの大きな建物が並ぶ。東寄りにあるのが江戸東京博物館で、中世から現代に至る江戸東京文化を紹介する常設展の評判が高い。西に並ぶ緑の大屋根が国技館。年3回の本場所が開かれる時は、浴衣掛けの力士が行き交い、櫓(やぐら)太鼓の音が響く。その北側が江戸時代の大名庭園であった旧安田庭園。明治時代に財閥の総帥・安田善次郎の所有となり、後に東京都に寄付された。隅田川の水を取り入れた「潮入の池」が有名だ。さらに道を1つ隔てた所が横網町公園で、東京都慰霊堂と震災復興記念館がある。

関東大震災の猛威 被服廠跡の惨禍伝える 空襲の犠牲者も合祀

東京都慰霊堂の講堂に入ると、薄暗い空間の右手の壁に関東大震災の様子を伝える大きな油絵が並んでいる。洋画家・徳永柳州が門人とともに被災直後の各所を取材し、描きあげたものだ。

中の1枚に「旋風」という作品がある。わき上がる炎が人々を空中に吹き上げている。説明文によれば「隅田川付近に生じた大旋風が、火炎とともに人や荷物を天高く巻き上げた」のだという。

火災旋風吹きまくる

慰霊堂を管理する東京都慰霊協会の木暮亘男常務理事はかつて、旋風に吹き飛ばされた体験者に会い、話を聞いている。

「その人は被服廠(ひふくしょう)跡(慰霊堂のある横網町公園)にいて、火炎に巻き上げられましたが、隣接する旧安田庭園の池に落ちたので助かりました。人間どころか、馬も荷車とともに空中を飛んでいったそうです」

1923(大正12)年9月1日午前11時58分。相模湾内に発生した巨大地震は、震源に近い神奈川県よりも、東京市内に大きな被害をもたらした。下町を中心に発生した火災が原因で、特に両国駅近くの「被服廠跡」が惨憺(さんたん)たる状況に陥った。

被服廠跡とは旧日本陸軍の軍服などを製造する工場と事務所の跡地(約6万6000平方メートル)である。一帯は再開発が予定されており、更地に火災を逃れた何万という人々が集まってきた。

そこに想像を絶する「火災旋風」が襲来した。折から小型の台風が日本海沿岸を進んでおり、東京でも風速20メートル以上の南風が吹いていた。竜巻のような火炎が、午後4時ごろから約2時間、人々を舐(な)めつくし、吹き飛ばしていく。旋風が収まった後、黒焦げの遺体があたり一面に横たわっていた。その数約3万8000体。東京全体の犠牲者5万8000人の65%という膨大な数である。

翌日から遺体、遺骨の収容が始まった。10日後、遺骨の山は高さ3メートルを超えたという。「慰霊堂を」という声が日ごとに高まっていく。建設予定地は被服廠跡を置いてほかになかった。

その年の11月、震災記念事業協会が設立され、慰霊堂建設の募金が始まった。祭式場の講堂と納骨堂の三重塔を組み合わせた「震災慰霊堂」(伊東忠太の設計)が完成したのは、震災7年後の30(昭和5)年9月であった。

震災慰霊堂を改名

それから15年後、東京は第2次世界大戦によってさらなる大被害を被ることになる。米軍の本格的な空襲は44年から翌年8月の終戦まで。東京など各地は連日のように爆撃を受け続けた。

中でも激甚を極めたのが45年3月10日の「東京大空襲」であった。B29爆撃機による焼夷弾(しょういだん)攻撃は、東京下町に関東大震災の被災地をなぞったかのような火災を引き起こした。犠牲者は震災を遥(はる)かに上回り、仮埋葬された遺体は10万5000体を数えている。

終戦後、東京都の戦災犠牲者を祀(まつ)る施設建設が計画されたが、資金不足のうえ予定地もない。そんな時、GHQ(連合国軍総司令部)から「震災慰霊堂でどうか」との提案がなされた。

それはおかしい、という声が当時は高かった。戦災の責任は国家が負うべきもの。天災である震災と戦災はいっしょにできない、というわけである。しかしGHQの一声は重く、東京都は、「慰霊堂に合祀(ごうし)する」と決めた。仮埋葬の遺体は改葬(火葬)後、慰霊堂に移されていった。その作業が完了した51年、震災慰霊堂は「東京都慰霊堂」に名を変えた。

なお慰霊堂に祀る戦災死者の名簿は、いまだに確定していない。そのため都は2001(平成13)年から追加登録を始めた。家族などからの申請を受け付けるもので、戦後60年を過ぎて、毎年数百人の名が新規に登録されている。

文・今泉 恂之介

2つの慰霊式典

 

■2つの慰霊式典

慰霊堂の正面。内部の講堂では毎年、9月1日には大震災関係、3月10日には東京空襲関係の慰霊式典が行われる。宗教行事のため東京都はかかわらず、慰霊堂を管理する東京都慰霊協会の主催となっている。


日本経済新聞 夕刊 2008年8月27日(水) 掲載

探訪余話

震災復興記念館

東京都慰霊堂は講堂と三重塔を合わせ広さが約1244平方メートル(377坪)、三重塔の高さが41メートルあり、かつて近隣でひときわ目立つ建築物だった。ところが1980−90年代、国技館と江戸東京博物館がJR両国駅前に完成、さらに近年、横網町公園の隣接地にNTTドコモ墨田ビルや第一ホテル両国などの高層ビルができ、めっきり地味な存在になってしまった。

しかし道1つはさんで隣り合う旧安田庭園から慰霊堂のある横網町公園は木々の豊かな緑でつながっており、都民の貴重な憩いの場であることに変わりはない。近隣の人々の話では、野鳥の鳴き声が多く聞かれ、適当な散歩コースになっているという。

横網町公園には慰霊堂の付属施設として作られた震災復興記念館もある。震災の被害を示す遺品や絵画、写真などが展示されており、第2次世界大戦の戦災に関するものもある。館内は古色蒼然とし、見学客も少ないが、展示物をじっくり見学すると災害の重みが伝わってくる。

中でも注目したいのが、震災を描いた徳永柳州の油絵(本文参照)と戦災を記録した石川光陽の写真だ(慰霊堂にも掲げられている)。石川光陽は戦時中、警視庁に所属していた写真家で、警視総監の指示によって戦災の状況を撮影していた。戦災現場の撮影は、一般人には禁じられていたため、非常に貴重な記録となっている。石川は駐留軍から震災写真のネガフィルム提出を求められたとき、断固拒否を貫いたことでも知られている。

復興記念館の外側(野外)には、震災の火災で焼けた鉄製品が展示されている。どれも焼けたり溶けたりの状況がすさまじい。ビルの鉄骨が一まとめに固まったものは、まるで芸術的オブジェのようだ。大樽一杯に詰まっていた釘が丸ごと溶けて、1つの鉄塊になっていたりしている。どれも火災の猛威をまざまざと伝えるものばかりである。

天災と人災

慰霊堂の周囲にも、震災・戦災関連のモニュメントが並んでいる。都営地下鉄大江戸線両国駅に近い清澄通りから公園に入ると、すぐ左手にあるのが中華民国仏教団から寄贈された震災犠牲者を弔う鐘。その先には震災で亡くなった児童約5000人を慰霊する「弔魂像」がある。

日本人には辛いことだが、関東大震災時に風評によって虐殺された「朝鮮人犠牲者の追悼碑」にも目をそむけてはならないだろう。震災によって大きな被害を受けた人々は「朝鮮人が放火している」などの悪質なデマに動揺した。自警団を組織し、朝鮮系の人々を殺害したグループも多く、その犠牲者は約6000人とされている。

追悼碑にはこう記されている。

「――この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を築く礎となると信じます――」

慰霊堂と記念館の間にある半円形の斜面は、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」である。季節ごとの花で覆われており、横網町公園内で最も華やかな場所と言えるだろう。

近年、校外学習などで慰霊堂・記念館にやってくる中学生が増えている。東京都慰霊協会では資料を提供するなど積極的に協力しているが、「震災」と「戦災」を取り違える中学生が多いという。関東大震災の説明をしていると、戦災に関する質問が飛び出したりして、困惑するそうだ。震災から85年、終戦から63年。天災と人災がもたらした2つの悲劇の犠牲者が同じ場所に祀られている。中学生世代では区別が難しいのは当然かもしれない。

文・今泉 恂之介

納骨堂の三重塔

震災復興記念館

震災で溶解したビルの鉄骨

震災遭難児童弔魂碑

空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑