震災復興記念館
東京都慰霊堂は講堂と三重塔を合わせ広さが約1244平方メートル(377坪)、三重塔の高さが41メートルあり、かつて近隣でひときわ目立つ建築物だった。ところが1980−90年代、国技館と江戸東京博物館がJR両国駅前に完成、さらに近年、横網町公園の隣接地にNTTドコモ墨田ビルや第一ホテル両国などの高層ビルができ、めっきり地味な存在になってしまった。
しかし道1つはさんで隣り合う旧安田庭園から慰霊堂のある横網町公園は木々の豊かな緑でつながっており、都民の貴重な憩いの場であることに変わりはない。近隣の人々の話では、野鳥の鳴き声が多く聞かれ、適当な散歩コースになっているという。
横網町公園には慰霊堂の付属施設として作られた震災復興記念館もある。震災の被害を示す遺品や絵画、写真などが展示されており、第2次世界大戦の戦災に関するものもある。館内は古色蒼然とし、見学客も少ないが、展示物をじっくり見学すると災害の重みが伝わってくる。
中でも注目したいのが、震災を描いた徳永柳州の油絵(本文参照)と戦災を記録した石川光陽の写真だ(慰霊堂にも掲げられている)。石川光陽は戦時中、警視庁に所属していた写真家で、警視総監の指示によって戦災の状況を撮影していた。戦災現場の撮影は、一般人には禁じられていたため、非常に貴重な記録となっている。石川は駐留軍から震災写真のネガフィルム提出を求められたとき、断固拒否を貫いたことでも知られている。
復興記念館の外側(野外)には、震災の火災で焼けた鉄製品が展示されている。どれも焼けたり溶けたりの状況がすさまじい。ビルの鉄骨が一まとめに固まったものは、まるで芸術的オブジェのようだ。大樽一杯に詰まっていた釘が丸ごと溶けて、1つの鉄塊になっていたりしている。どれも火災の猛威をまざまざと伝えるものばかりである。
天災と人災
慰霊堂の周囲にも、震災・戦災関連のモニュメントが並んでいる。都営地下鉄大江戸線両国駅に近い清澄通りから公園に入ると、すぐ左手にあるのが中華民国仏教団から寄贈された震災犠牲者を弔う鐘。その先には震災で亡くなった児童約5000人を慰霊する「弔魂像」がある。
日本人には辛いことだが、関東大震災時に風評によって虐殺された「朝鮮人犠牲者の追悼碑」にも目をそむけてはならないだろう。震災によって大きな被害を受けた人々は「朝鮮人が放火している」などの悪質なデマに動揺した。自警団を組織し、朝鮮系の人々を殺害したグループも多く、その犠牲者は約6000人とされている。
追悼碑にはこう記されている。
「――この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を築く礎となると信じます――」
慰霊堂と記念館の間にある半円形の斜面は、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」である。季節ごとの花で覆われており、横網町公園内で最も華やかな場所と言えるだろう。
近年、校外学習などで慰霊堂・記念館にやってくる中学生が増えている。東京都慰霊協会では資料を提供するなど積極的に協力しているが、「震災」と「戦災」を取り違える中学生が多いという。関東大震災の説明をしていると、戦災に関する質問が飛び出したりして、困惑するそうだ。震災から85年、終戦から63年。天災と人災がもたらした2つの悲劇の犠牲者が同じ場所に祀られている。中学生世代では区別が難しいのは当然かもしれない。
文・今泉 恂之介

納骨堂の三重塔

震災復興記念館

震災で溶解したビルの鉄骨

震災遭難児童弔魂碑

空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑