明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

総2階建てのきらびやかな御殿はレトロな風格を漂わす(写真・多田 征樹)

所在地:神奈川県箱根町 完成:1891(明治24)年

ひと息

富士屋ホテル

 一時は「外国人専用」を看板にした老舗ホテルだが、近年はレトロな高級感を味わおうと訪ねる日本人客が増えた。前身の「藤屋」は豊臣秀吉が小田原北条氏を攻める際に逗留(とうりゅう)した由緒ある宿。それにちなみホテルの斜め向かいには公衆温泉「太閤湯」がある。すぐ近くには早川を望む急斜面を利用した3万平方メートルの自然庭園に露天風呂をしつらえた日帰り温泉「楽遊寿林」がある。自噴の温泉につかり名物「箱根蕎麦膳」を楽しむ手も。ホテル前の国道1号沿いには「大和屋」「芝商店」「江戸商店」など骨董店が並ぶのも外国人客で開けた宮ノ下の特徴。早川沿いの「チェンバレンの散歩道」(堂ケ島遊歩道)をたどるのも楽しい。

牛が生んだホテル 外観和風で室内洋風 海外賓客の定宿

寺か神社のような唐破風(からはふ)をのせた玄関。軒下には鳳凰(ほうおう)、鷲(わし)、孔雀(くじゃく)の彫刻がほどこされ、ガラス戸のはまった白壁の外側には朱塗りの欄干。なんとも奇妙な建物が緑に覆われた箱根山の中腹宮ノ下にある。1891(明治24)年に建てられて以来ほぼ120年、内外の観光客の人気を保ち続けている富士屋ホテル本館である。

金持ち外国人当て込む

富士屋ホテルの創業者山口仙之助は1871(明治4)年11月、20歳で一念発起サンフランシスコに渡った。しかし、身寄りも頼りもない異国での暮らしはなまやさしいものではなかった。勉学どころか、「皿洗いまでやり、艱難辛苦(かんなんしんく)した」という話が子孫に伝わっている。そして3年間、寝食を惜しんで稼ぎためた金で7頭の乳牛を買い込み、横浜に戻った。

「これからの日本に必要なのは牧畜業」という青年らしい思い込みで牛など買ってきたものの、この目論見はみごとにはずれてしまう。明治初頭、いくら開港場とはいえ牛乳の需要など微々たるものだった。それに牧畜業を学んだわけでもなく、指導してくれる人もいない。たちまち2頭が死んでしまった。

途方に暮れていたところへ、駒場勧業寮(東大農学部の前身)が外国産の繁殖用牛を求めていることを聞きつけ、渡りに船と残った5頭を売り渡した。国の買い上げ価格は1250円だったという。巡査の初任給が6円、今の世田谷区、新宿区あたりの土地が3.3平方メートル当たり20銭、盛り蕎麦(そば)8厘という時代の1250円はたいした金額である。

さてこれを元手に何をやろう。考え抜いた末に「箱根に外国人が泊まれるホテルを造る」と決めた。脳裏には皿洗いで苦労したサンフランシスコの「ホテル」があったに違いない。そして77年、箱根宮ノ下の草分け旅館「藤屋」の敷地建物、温泉の権利をそっくり買収、横浜から洋館建築に慣れた大工、職人を引き連れ、資材を運び込んで3階建ての洋館ホテルを造った。

「外国人には何といってもフジヤマだ」と、屋号も「藤屋」から「富士屋」に改名、翌年7月15日、はなばなしく開業した。

箱根山のパラダイス

箱根山中に生まれた本格的リゾートホテルは在留外国人の話題になり大繁盛。東京帝国大学で日本語学、言語学を教えた チェンバレン、作家のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、やはり帝大教授の医学博士ベルツ、「日本アルプス」の名付け親の登山家ウエストンなど錚々(そうそう)たる人物が続々とやって来た。

ところが83年12月の宮ノ下大火で富士屋ホテルは全焼してしまった。めげない仙之助は方々から借金をしまくり、翌年7月には小さな木造平屋建てながら、ともかく富士屋ホテルを再開してしまう。そして91年、小田原の棟梁(とうりょう)、河原兵治郎に指揮を執らせ、自らのアイデアを存分に盛り込んだ建坪1720平方メートル、総2階建てのきらびやかな御殿「富士屋ホテル本館」を造り上げた。

1912(大正元)年、病に倒れた仙之助に代わって経営を任された長女の婿、正造は、初代が築いた富士屋ホテルの名を全世界に広める働きを示した。本館裏に広がる日本庭園の滝を見渡せる場所に広大な舞踏場カスケードルームを造ったのを手始めに、温泉熱を利用した大きな温室を設け宿泊客を楽しませた。30年には豪勢なダイニングルーム、36年には後年、音楽家ジョン・レノンが絶賛したという新館「花御殿」を建設、今日ある富士屋ホテルの全容を整えた。

富士屋ホテルは仙之助、正造という2人の「和洋折衷人間」が箱根山中に造り上げたパラダイスであった。花御殿地階の資料展示室にある数十冊の古ぼけた宿泊人名簿は明治以来連綿と続いた民間外交の貴重な証拠品でもある。

文・大澤 水紀雄

私費でつくった国道

富士屋ホテル提供

■私費でつくった国道

仙之助は1887(明治20)年、塔ノ沢から宮ノ下まで総延長5.7キロの道路を通した。これが現在の国道1号。総工費1万882円のほとんどは借入金で、弁済のため歩行者1銭5厘、人力車、かご3銭の通行料を徴収した。


日本経済新聞 夕刊 2008年8月21日(木) 掲載

探訪余話

ガイジンさん専用

1878(明治11)年創業の富士屋ホテルは今年で130周年。明治の昔から第2次大戦前後まで、「FUJIYA HOTEL,HAKONE,JAPAN」で世界中から手紙が届いたと言われるほど国際的に名を馳せ、日本の国際観光振興の先兵となった。それとは裏腹に、「ガイジンにおもねっている」「あのごてごてした外観は悪趣味の極み」という悪口もあった。

創業者の山口仙之助も、その後を受け継いだ正造も、そんな悪口は百も承知だった。本館はじめダイニングルーム、花御殿などにほどこされた数々の彫刻や極彩色の絵などは確かに装飾過多な感じであり、「和風」とは言いながら日本人の好みから大きく逸脱している。しかしそれらは「外国人が抱く日本イメージを形にしよう」という仙之助、正造が意識して行ったものなのである。事実、富士屋は長い間、「ガイジン専用ホテル」だったのだ。

仙之助は口癖のように、「富士屋ホテルは外国人の金を取るのが目的で作った。純粋に外国の金を稼ぐのが自分のねらいなのだから、日本人の客には来てもらわずともよい」と語っていたという(「富士屋ホテル八十年史」、1958年発行)。「外貨獲得・富国強兵」という明治期の大商人に共通する国士的精神である。

もっとも外国人客に的を絞った方が経営上有利という考えも働いていたようである。当時の温泉旅館では日本人客なら1泊2食でせいぜい50銭というところだが、ガイジンさんなら黙って2円から3円頂戴できた。一方、明治政府お雇外国人にしてみれば、巡査や小学校教員の初任給が6円というこの時代に、月給300円から1000円という途方もない高給取りだったのだから、超一流のサービスを受けて2、3円など少しも高いとは思わなかっただろう。

ライバル奈良屋

富士屋開業当時、宮ノ下温泉には「奈良屋」という江戸時代から続く名旅館があった。もちろん伝統的な日本旅館で部屋は畳敷きに布団であり、ガイジンさんにとってあまり居心地の良いものではなかったが、抜群の接待ぶりに加え、庭園内の茶室でティー・セレモニーが体験できることなどから横浜居留地の外国人に人気が高かった。

奈良屋の牙城に立ち向かう仙之助は知恵を絞ると同時に身を粉にして働いた。横浜山手のキダー塾(現フェリス女学院)出身で英語が話せた妻のヒサも女主人として客を上手にもてなし、夫を助けた。外観は和風、室内は板張りにカーペットとベッドの洋風というガイジン好みの設備も好評を得た。

さらに仙之助は毎日のように小田原まで出向き、横浜から馬車でやって来る外国人がここで人力車や駕篭(かご)を雇って箱根に向かうところを待ち受け、箱根登山の手配や荷物運びまでやって富士屋へ誘導した。また、横浜で外国人向け物資を取り扱う有力商店と組み、夜中に横浜を発つ馬車でパンや肉を小田原に運ばせ、そこから宮ノ下までは人夫が担いで運ぶ方式を編み出した。これによって毎朝、新鮮な洋風ブレックファーストを提供し、宿泊者を喜ばせた。

奈良屋だって負けてはいられない。幕末から外国人に親しまれていた知名度と、外国人を箱根山に案内できるごく少数の案内人をほとんど配下におさめていたこと、宮ノ下大火後に再建した3階建ての豪壮な新築旅館を売り物に逆襲する。こうして両者のガイジン客争奪戦は熾烈を極めた。「富士屋ホテル八十年史」には、創業時の最大の問題点が奈良屋ホテルとの競争だったことが記されている。

しかし、仙之助も奈良屋の安藤兵治も意地の張り合いに疲れてしまったのだろう。富士屋開業後15年たった1893年5月、両者は横浜区裁判所で「奈良屋は日本人専用、富士屋は外国人専用」という公正証書を作成、取り交わした。外国人を独占する権利を握った富士屋はその代償として奈良屋に年間400円支払い、もし奈良屋が外人客を泊めた場合、逆に富士屋が日本人客を取った場合は、それぞれ宿泊代の1割を相手側に支払うという、日本のホテル史上例の無い契約であった。

この世にもめずらしい契約は1912年末、つまり明治が終る年までざっと20年継続された。仙之助の後を引き受けた正造が名実ともに富士屋の経営に力を振るう大正初年には、もうこの契約は無かったのだが、その頃には「箱根へ行く外国人は富士屋」というのが常識になっていた。

戦禍をくぐり抜け

大正から昭和初年にかけて富士屋ホテルは最も華やかな時代を迎える。皇族はじめ政治家、実業家、日本を訪れる有名外国人が続々とやって来た。3代目社長の正造は存分に経営手腕を発揮し業容を拡大、芦ノ湖畔に箱根ホテル、河口湖畔には富士ビューホテルを開業、仙石原ゴルフ場も開いた。

しかし日中戦争とそれに続く太平洋戦争によって平和産業のシンボルともいうべきホテルは大打撃を受けた。ことに「外国人向き」というレッテルを貼られていた富士屋はなおさらであった。ただ逆にこれが救いともなって、戦時中はドイツ、イタリーなど枢軸国の外交官とその家族の宿舎に指定されたことで、一定の収入は確保できた。

さらに終戦後は占領軍に接収され、54(昭和29)年まで進駐軍およびその家族の保養所になった。これまた固定収入が保証され、食糧、資材などは優先的に補給されるという、窮乏時代に多くのサービス産業がなめた苦労をせずに済んだというメリットはあったが、本来のホテル経営とはとても言えない。

54年7月、晴れて一般営業ができるようになったが、戦中戦後の混乱で昔の顧客はちりぢりになっており、探し当てても没落していて富士屋になど到底泊まりに行けないという状況の人も多かった。

4代目社長の堅吉が東京案内所を新設するなど、新規顧客開拓に苦労している時に神風が吹いた。57年頃から欧米各国で起こった「日本観光ブーム」である。世界一周の豪華客船が次々に横浜港大桟橋に入って来て、東京見物の後は箱根山周遊、富士屋に宿泊というコースが出来上がった。富士屋にとって3度目のブーム到来である。

この繁栄期は東京オリンピックをはさんでかなり長く続いた。しかし、第1次、第2次オイルショックと円高ドル安によって、外国人観光客の足がすっかり遠のいてしまった。今でも箱根山には相変わらず外国からの観光客が大勢訪れるが、安い宿泊地を求めて箱根は通過観光地になってしまった観がある。

これに変って富士屋の新たな顧客として登場して来たのが若い女性と悠々自適の実年夫婦である。全国各地からデラックスバスがこうした客を満載して連日やって来る。古き良き時代の「遺産」に目を向ける人たちが増えてきたのだ。

富士屋ホテルでは毎日午後3時から宿泊者サービスとして「館内ツアー」を行っている。勤続半世紀という“生き字引”のコンシェルジュ鈴木忠征さんが、数十人の客に取り巻かれて本館から花御殿、カスケードルーム、ダイニングルームと館内を案内し、故事来歴を語り聞かせる。年寄夫婦も若いカップルも深くうなずきながら説明に聞き入り、館内至るところにちりばめられた彫刻や絵に見入り、スタートのロビーに戻ったところで「FUJIYA HOTEL since 1878」と書かれた「館内ご見学記念証」を嬉しそうに受け取る。現存する最古のホテルが新たな天地を切り開こうとしている。

文・大澤 水紀雄

日本庭園

木彫の龍

川端康成やチェンバレンのサインも

ジョン・レノンの泊まった部屋

館内ツアー