明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

「本州最涯地」の碑がたつ岬では寒立馬がのんびりと草をはむ(写真・三島 叡)

所在地:青森県東通村 完成:1876(明治9)年

ひと息

尻屋埼灯台地図

 尻屋崎の人気者、寒立馬は一時、9頭に減ったが、地元住民の尽力で38頭に増えた。お産の時期だけ面倒をみるという野生飼育の方針を貫いている。もうひとつの魅力は岬の松林や原野に可憐な花をつけるさまざまな野草だ。夏場は灯台の周辺は花畑のようになる。ことにスカシユリは切り立った岩場に咲き、オレンジ色の花は白亜の灯台、紺碧の海にアクセントを添える。潮が合流する磯で育ったウニ、アワビ、天然ホタテ、ツブ貝が美味。黒毛和牛や手打ちそばなども地元、東通(ひがしどおり)村の特産品だ。

戦禍くぐった 北の海の太陽 明治生まれの大灯台

終戦ひと月前の1945(昭和20)年7月14日、尻屋埼灯台は米軍艦載機の空襲を受けた。村尾常人技手(42)が無線通信室で銃弾を受け殉職した。翌年夏のこと、まだ復旧していない灯台に夜な夜な灯がともるという噂(うわさ)が立った。

5月に灯台職員らが目撃したのが最初で、航行する漁船からも幾度か目撃情報が寄せられた。当時の台長代理がこれを「灯台の怪火について」という異例の公文書にして横浜の灯台局に報告する騒ぎになった。8月に仮設の灯がつき怪火情報もなくなったが、以来、「殉職技手の霊がともした」という話が語り継がれた。

日本本土への空襲がはじまると灯台が狙われた。44年3月に足摺岬灯台などが機銃掃射をうけたのが始まりで、伊江島、金華山、犬吠埼などの灯台で殉職者が相次いだ。平穏と安全の象徴が、無防備ゆえに格好の標的となった。

尻屋埼灯台は8月10日までの間に計14回も襲撃されたが堅牢(けんろう)な躯体(くたい)は残った。煉瓦(れんが)造り、33メートルの塔は、いまも完成当時の優美な姿を保つ。

ブラントン

灯台はわが国初の西洋式建築である。1866(慶応2)年、徳川幕府が英米仏蘭の4カ国と灯台設置を約し、69(明治2)年、観音埼灯台が初めて灯をともした。当時の灯台建設は仏人技師の指導によったが、明治になると英国人技師に主導権が移った。中でもR・H・ブラントンは全国に28もの灯台を造ったことで知られる。

東北初の灯台、尻屋埼もブラントンの設計で、房総半島の野島埼灯台に次ぐ大型だった。尻屋崎は津軽海峡の東口にあたる海運の要衝だが、沖合は浅瀬が多い。濃霧や吹雪に惑わされ座礁する船が絶えず「難破岬」「海の墓場」と恐れられた。

霧笛にあたる霧信号(当時は打鐘)の発祥の地であり、初の電気灯台でもある。1901(明治34)年に自家発電によるアーク灯が海を照らし「海の太陽」と船員たちに呼ばれた。現在、この灯台の明るさは日本最大級で、10秒に1回の閃光(せんこう)は34キロ先まで届く。

寒立馬

2006年11月、長崎県五島の女島灯台を最後に有人灯台は日本から消えた。尻屋崎を描いた洋画家・岡鹿之助の「岬」には灯台正面に平屋の建物が描かれているが、完全自動化された後、家屋はなくなり更地になっている。

映画「喜びも悲しみも幾歳月」が描き、唱歌「灯台守」が歌うように職員の仕事は苦労が多かった。人里離れた海辺や孤島での職住一体の日々に休みなし。転勤の連続を支えたのは「守灯精神」と自負した使命感であった。

二女、山田操さんによれば、村尾技手は尻屋埼までに女島、鍋島、禄剛埼(ろっこうさき)、出雲日御碕(ひのみさき)と異動し、兄妹6人はそれぞれの土地で生まれたという。

当時、小学生の操さんは海沿いに4キロ歩いて通学していたが、冬は小学校そばの寺に寄宿した。寺のある尻屋地区の古老は村尾さんの殉職を覚えているという。無線で連絡しようと「顔を窓に寄せたところを撃たれた」と話す。

残された母子7人は故郷の広島県尾道に戻るべく徒歩で南の田名部へ向かい、途中で「兵隊さんのトラックに拾ってもらった」という。

いま無人灯台を守るのは「寒立馬(かんだちめ)」と呼ぶ野生馬だ。村人が南部馬を農耕用、軍用に改良し飼育していたが、動力の普及で不要となり野放しにされた。岬の平原で野生に戻った馬は冬場も雪の中で寒風に耐えじっと立つことからこう呼ばれるようになった。

スカシユリや色丹キンポウゲなど赤や黄の山野草が咲き乱れる「本州最涯(さいはて)地」の岬。草原にたたずむ寒立馬とどっしりとした灯台のとりあわせはまことに平和でのどかである。

文・名和 修

明治の灯台守

燈光会提供

■明治の灯台守

山形県の酒田灯台を守った灯台職員一家(明治28年)の様子。自動化と事務所の集約がすすむ昭和の終わりころまで、職員の多くは灯台敷地内の宿舎兼事務所に住み、家族ぐるみで勤務した。


日本経済新聞 夕刊 2008年8月14日(木) 掲載

探訪余話

やませに耐え咲く花々

尻屋埼灯台は白亜に塗られているがいまは貴重な煉瓦(れんが)造。敷地内には、灯台を修理したときに出た煉瓦を使った構造模型が置いてある。幾層にも重ねて組み上げた堅牢な造りだ。

下から見上げると灯室を支える首の部分に襟模様のような装飾が施してあり、塔のシルエットに西欧的雰囲気をかもし出す。社団法人「燈光会」が人気の灯台を募った「日本の灯台50選」にもはいっている。

設計したリチャード・ヘンリー・ブラントン(1841―1901)はスコットランド生まれの英国人技師。明治元年、妻を連れ26歳で来日したお雇い外国人第1号だ。多くの灯台を建設し「灯台の父」と呼ばれるが、横浜公園を設計するなど多彩な足跡を残している。尻屋埼灯台は最後の灯台設計で、施工期間は3年にわたったために完成を見ることなく日本を去った。

灯台建設の足取りは日本全国に及んでおり、近代化を支えた海運の隆盛に、このスコットランド人の果たした役割は大きかった。

灯台の足元は切り立つような断崖で、海面から灯火までの高さは47メートルある。「難破岬」の異名があり、遭難した船員を供養する碑や地蔵などがたつが、夏は断崖の岩場や草原をさまざまな山野草が彩る。

馬が遊ぶ芝生に白いアズマギクが広がり、岩壁にはオレンジ色のスカシユリや輝くような黄金色の色丹キンポウゲが咲く。背後の平原に群生する黄色のゼンテイカ、地元、東通村のシンボル花のノハナショウブ、紫色の釣鐘型が可憐なハマシャジンなど岬全体が花畑のようになる。いずれも夏の季節風「やませ」を受けて西向きに花をつけている。高原のような涼しさとあいまち、花々をお目当てにやって来る人も多い。

寒立馬(かんだちめ)は岬の東岸にある尻屋地区の牧野組合が世話をしている。12月下旬から3月までの冬場は、雪の多い灯台付近から集落近くへ移動し野外で草を食む。尻屋地区は殉職した村尾さんの二女、操さんと妹の緑さんが就学のため寄宿していた寺がある。尻屋大光庵といい、田名部海辺三十三観音札所のひとつ。

小高い丘の上に立つ観音堂で、灯台が爆撃されたときにも操さんはここにいた。4キロ先の「灯台が燃える様子は松林ごしに見え、まるで松明のようだった」と話す。父の死を知らされたものの現場へ連れて行ってもらえず、操さんは丘の上に立って「お父さん」と呼び、泣いていたという。

水揚げされたウニの殻から身をとりだす作業をしていた年配の女性たちは、殉職灯台守や幻の灯火のことはよく聞かされたと話す。

村尾さんの妻は6人の子供たちをつれて故郷の広島県・尾道に戻り、戦後は家政婦をして子供たちを育てた。今治市に住む操さんは50回忌にあたる平成6年7月、息子の喜郎さんと尻屋崎を訪ね父の供養をしている

尻屋崎へはJR大湊線下北駅からバスで約1時間。灯台へは尻屋崎口下車。下北半島を巡るなら青森かむつ市でレンタカーを借りるのが便利だ。

比叡山、高野山と並ぶ日本3大霊場のひとつ、イタコの口寄せで知られる恐山(おそれざん)は三十三観音の最終札所。薬研(やげん)温泉や波と風が造った下北の景勝地、仏ヶ浦へも寄りたい。

文・名和 修

首元の飾りは西洋風

スカシユリ

色丹キンポウゲ

ハマシャジン

霊場・恐山