明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

倒壊後3分の1の高さに修復され、いまはリサイクル工場の水蒸気を排出している。手前はダルマ煙突(写真・多田 征樹)

所在地:茨城県日立市 完成:1914(大正3)年

ひと息

日立鉱山大煙突地図

 JR常磐線日立駅から、日立電鉄バス「東河内」行きで約20分、「大雄院事務所前」で降りる。目の前が日鉱金属日立事業所のオフィスと工場。かつての日立鉱山大雄院製錬所だ。工場敷地内に立ち入ることはできないが、事務所の屋上越しに「大煙突」が見える。そこからバスで10分上ると「日鉱記念館前」停留所。1985(昭和60)年に日立鉱山の跡地に建てられた日鉱記念館の本館1階は新日鉱グループ100年の歴史、中2階が日立鉱山の歴史、そして2階が大煙突の着工から現代までを写真、文献などで展示。敷地内には久原房之助が住居とした「旧久原本部(茨城県指定文化財)」、昔の鉱山機械や世界各地の鉱石を展示する「鉱山資料館」などがある。

煙害防止に大英断 世界一の五百尺 工都、日立のシンボル

「工都のシンボル、ポキリ」「突然の出来事に嘆く市民」――。1993(平成5)年2月19日、日立鉱山の大煙突が突然、下部3分の1を残して倒壊したことを報じた新聞の見出しだ。

市内のどこからでも望めた大煙突は日立という工業都市にあって企業と地域との共存共栄のシンボルであった。市民は78歳と2カ月の寿命を惜しんだ。

小坂鉱山(秋田県)の再建に成功した久原房之助(くはらふさのすけ)が、経営不振で苦しんでいた茨城県の赤沢銅山を1905(明治38)年に買収、屈指の銅鉱山・製錬所に育て上げたのが日立鉱山である。

最新式の探鉱、削岩技術、製錬法の採用などで創業10年足らずで有力鉱山会社に成長した。1910(明治43)年には初代工作課長の小平浪平(おだいらなみへい)(日立製作所創業者)の進言で日立製作所の起源となる電気機械製作の工場も造られた。

しかし、銅製錬で発生する亜硫酸ガスが地元で大きな問題になった。特に、豆やタバコは煙に弱く、周辺住民との共生を重視していた同社は損害賠償に応じていたものの事態は改善しなかった。

煙突はできるだけ低くして、途中で空気と混ぜて薄めてから排出するというのが、このころの煙害対策の主流だった。日立鉱山も製錬所の操業開始時に造った煉瓦(れんが)造りの八角煙突(高さ18メートル)に加えて、西側の神峰山(かみねさん)の尾根伝いに全長1.6キロメートルもの煙道(百足(むかで)煙道)を設置した。煙道の途中に開けた穴から煙を流す仕組みだ。

さらに政府の命令で高さ36メートル、内径18メートルのずんぐりしたダルマ煙突を建てたりしたが、一向に効果をあげることができなかった。ダルマ煙突はかえって煙害を増大させたので「阿呆(あほう)煙突」と呼ばれた。

久原の挑戦

そこで久原は「思い切って高い煙突を造り、上空で拡散させたら」と発想を転換。陸軍に人を派遣して係留気球の勉強をさせ、どのくらいの高さなら煙が上昇気流に乗って拡散するかを調べた。

建設費は30万円という巨額に上る。大煙突の効果は期待できないという反対論も社内で出た。しかし、久原は「この大煙突は日本の鉱業発達のための一試験台として建設するのだ」と譲らず、1914(大正3)年建設に着手する。

大雄院(だいおういん)という寺の跡に作った製錬施設の裏手の山の斜面、海抜325メートルの地点。鉄筋コンクリート製で高さは500尺、155.7メートルあった。当時、米国モンタナ州の製錬所の煉瓦(れんが)煙突152メートルをしのぎ世界一である。

コンクリートミキサー車などなかった時代。3万本にもなる丸太と5万4000把(たば)の棕櫚縄(しゅろなわ)で作った足場で延べ3万6000人の人力を動員してコンクリートをこね、注入していく大掛かりな作業だった。

ある町の高い煙突

それでも工事は異例の速さで進み、着工後わずか9カ月足らずで完成、翌1915(大正4)年の3月から稼働した。同時に製錬所の周囲10キロメートルに設置した観測所で気象をチェック、風向きなどで煙害が悪化しそうになると操業を大幅に抑えるなど煙害防止に努め効果を上げた。

戦後の1972(昭和47)年になると、密閉型の自溶炉を採用、亜硫酸ガスは全量硫酸として取り出し、無公害化を達成した。

日立の名物となった大煙突、煙害克服に努力した会社と当時の地元住民の葛藤の様子は直木賞作家の新田次郎の小説『ある町の高い煙突』で全国的にも知られるようになった。

日立鉱山は1981(昭和56)年に閉山した。大煙突建設のころ、製錬所の周囲は禿山(はげやま)だったが、今は緑に覆われている。1000万本もの植林事業が実を結んだ。大島桜とヤシャブシを中心にした木々が低くなった「大煙突」を取り囲んでいる。

文・野々村 泰彦

倒壊前の大煙突

日鉱記念館提供

■倒壊前の大煙突

午前9時3分、倒壊の瞬間を見た日鉱金属日立工場医務室勤務(当時)の川村礼子さんによると「大煙突がわずかに震えたような感じがしてそちらを見ると、音もなくわずかな時間にその姿を保ったままゆったりと倒れていった」。


日本経済新聞 夕刊 2008年7月24日(木) 掲載

探訪余話

苦心惨憺處

小坂鉱山の再建に成功した久原房之助も日立鉱山の経営、とくに煙害問題では大いに頭を悩ました。

大煙突ができるまでは農作物や山林の被害が年々増加し、それを賠償するための巨額の補償金は本来の鉱山事業拡大に伴う資金調達問題とあいまって日立鉱山の経営の根幹にかかわることであった。

ちなみに、大煙突の建設費「30万円」に対し、鉱山が地元に払った補償金は1914(大正3)年の24万円をピークとしてその後大きく減少した。当時を振り返った久原の心境が「苦心惨憺處(くしんさんたんのところ)」という言葉に表れている。この言葉は久原が昭和10年に揮毫したもので、その扁額は現在日鉱記念館に展示されている。また同じ言葉が記念館本館の横にある「旧久原本部」(茨城県指定文化財)の入り口の岩にも刻まれている。 

この「旧久原本部」は鉱山開業当時、事業の本社機能を果たしていた木造平屋建ての日本家屋。久原はここに住み、幹部達と新鉱山の経営に当たった。中心になったのは久原が小坂鉱山時代から苦楽をともにした部下たちだった。

ただ、事業が軌道に乗ってからは主として大阪に住み、新興財閥久原鉱業のリーダーとして資金調達や他の事業の買収など事業拡大に奔走したから、ここにはあまり居なかったようだ。

旧久原本部の脇に「塵外堂」という名前のお堂がある。大雄院製錬所の建設予定地にそびえていた「千年杉」が使われている。この用材は最初に久原の神戸の屋敷に建立された観音堂に使われ、これを久原が後に東京の白金にあった邸宅(現在八芳園)に移し、さらに現在の場所におさまった。

山神祭

記念館の裏手の坂道を登り、123段の石段を登ると「山神社」にいたる。鉱山を守る山の神様である。祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)と金山姫命(かなやまひめのみこと)。常陸(ひたち)の豪族佐竹氏以来の神社で1909(明治42)年、久原が改築した。

毎年7月15日に大祭があり、この日は鉱山は休み。大規模な「園遊会」や仮装行列、柔道、剣道、弓道、相撲奉納大会なども行われ、最盛期には数万の人出でにぎわったという。

娯楽が少なかった当時、山神祭は山で働く人々にとって大事な年中行事だったようだ。今も伝統的なお祭りとして続いている。

日立の市街から日鉱記念館や大煙突へむかう途中の道路から見える「かねみ公園」に日立市が運営する「吉田正音楽記念館」がある。地元日立市の出身で昭和の歌謡界を代表する国民的作曲家・吉田正の足跡と作品を展示しており、大煙突や日鉱記念館とともに観光バスのコースにもなっている。

文・野々村 泰彦

日鉱記念館

旧久原本部前の石に刻まれた「苦心惨憺處」

旧久原本部

山神社