明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

1993年、近代化遺産としては初の国の重要文化財に指定された(写真・三島 叡)

所在地:群馬県安中市 完成:1893(明治26)年

ひと息

めがね橋地図

 新幹線開業前、横川駅では機関車の切り替え作業で4分ほど停車した。その間に地元の駅弁会社、おぎのやが「温かいお弁当を」と考え、50年前に売り出したのが「峠の釜めし」。廃線で横川駅での売り上げは激減したが、近隣の駅やドライブインなどで年間400万食も売れ、過去の累計は1億4500万食とか。
 横川駅そばにはテーマパーク「鉄道文化むら」があり、年間20万人の人出でにぎわう。ここを起点にめがね橋まで散策が楽しめるのが「アプトの道」。中間地点に日帰り温泉「峠の湯」がある。中山道・坂本宿や碓氷湖、ちょっと足を延ばせば妙義山など手軽に歩けるところが豊富だ。

急坂にギア付き機関車 トンネル内は煤煙地獄 鉄道技術、変遷の舞台

緑したたる渓谷に、くすんだ赤の煉瓦(れんが)橋が見事なアーチを描く。明治中期に、碓氷峠に建設された鉄道橋で、通称「碓氷めがね橋」、正式には「碓氷第3橋梁(きょうりょう)」という。

横川―軽井沢間の11.2キロを結ぶ碓氷線のほぼ中間に架かるこの橋をかつて列車が駆け抜けた。4連のアーチから成り、橋脚の高さ31メートル、長さ91メートル。橋の前後だけで6メートルも高低差がある。建造に要した煉瓦は約203万個に上る。見上げるとその重量感あふれる威容に圧倒される。

アプト式鉄道

はじめは急勾配(こうばい)を乗り越えるため、線路と車両双方のギア(歯車)をかみ合わせるアプト式を採用した。昭和半ばに、新線(旧信越本線)にその座を譲り、その新線も平成の新幹線開通で廃線になった。碓氷線には1世紀余の鉄道の変遷と盛衰が凝縮されている。

古くから、近畿と関東を結ぶ中山道の中でも、この碓氷峠は関所が置かれた要衝であり、越えにくい交通の難所でもあった。

1885(明治18)年には群馬県の高崎―横川間、その3年後には日本海側の直江津―軽井沢間が開通したものの、横川と軽井沢の間には碓氷峠が要害のように立ちはだかっていた。当時の鉄道技術では、この間の552メートルの標高差、66.7パーミル(1000メートル進むのに66.7メートルの高度差)という傾斜が難問だった。

この難題の解決のため着目したのがアプト式。スイスのロマン・アプトが発明し、ドイツで実用化されていた様子を視察した日本人技師の報告で採用した。中央に敷いたラックレールと呼ぶギアと、機関車に取り付けたピニオンギアを噛(か)みあわせて進む。

1891(明治24)年6月に着工。重機もない時代、約1万5000人もの工夫を動員する人海戦術で、わずか1年半で完成させた。区間には26のトンネルと18の橋がある。建設費は200万円。横川駅近くに500人の殉職者を供養する招魂碑が建つ。

これによって太平洋側と日本海側が鉄路で結ばれた。このころ生糸は最大の輸出品で、長野、群馬両県は養蚕、製糸の2大産地だった。碓氷線の開通でこうした物資の輸送が容易になり、経済効果は大きかった。完成を急いだのは物資、兵員の輸送という軍事的な意味合いもあったという。日清戦争が勃発(ぼっぱつ)したのは開通の翌年のことだ。

専用発電所も

急峻(きゅうしゅん)な山間を、轟音(ごうおん)とともに黒煙を吹き上げ、蒸気機関車が列車を押し上げて走る。当初は1日9往復、横川―軽井沢間が時速8キロ、80分もかかった。トンネル内は煤煙(ばいえん)とボイラー熱が充満した。乗務員は手ぬぐいで口や鼻を覆い、呼吸もままならない。

悩んだ末、打ち出されたのが電気機関車の導入だった。安中市街地にようやく電灯が灯(とも)り始めたばかりの電力普及期。専用の火力発電所と変電所を建設し、1912年に電化が実現した。高崎―横川間の電化に先駆けること50年も前のことだ。1日20往復、50分と輸送力も改善された。

昭和の高度成長期に入ると新型電気機関車を使った新線計画が浮上、アプト式路線と並行するかたちで1963(昭和38)年に信越本線が敷設された。所要時間は20分足らずに短縮、アプト式は「刻苦70年」にしてその役割を終えた。

だが、その新線も、97(平成9)年、長野新幹線の開業とともに廃止され、横川駅が高崎方面からの終点駅となった。新線の稼働期間は35年足らずだった。新幹線は高崎・軽井沢間の大半をトンネルで通過、車窓からは渓谷の険しさも四季の移ろいも眺めることができない。

いまは横川―めがね橋間4.7キロの廃線跡が遊歩道「アプトの道」に衣替えし、観光客に散策の場を提供している。

文・今井 亮平

橋上の機関車

安中市教育委員会提供

■橋上の機関車

碓氷線が開通した翌明治27年6月に発生した地震で、めがね橋の一部に亀裂が生じた。3年がかりで耐震補強工事を行い、橋脚はほぼ倍の太さになった。その後の地震では堅牢さを実証した。


日本経済新聞 夕刊 2008年7月17日(木) 掲載

探訪余話

蓄電もする変電所

めがね橋を含む一連の碓氷峠鉄道施設は1993年に国の重要文化財に指定された。そのめがね橋にとって、悩みは橋脚への落書き。ペンキを塗られたり、名前や年号らしい数字を刻み込まれた痛々しいレンガが多数ある。

安中市教育委員会の藤巻正勝さんは「ペンキの落書きは専門業者に依頼して、なんとか消したが、レンガに掘り刻んだ跡の修復方法がないので、とにかくこれ以上の落書きは止めてもらいたい」と呼びかけている。いかに心ない人たちが多いか、日本人のモラルハザードの実態を痛感させられる。

めがね橋同様に文化財になっているレンガ作りの施設として、「丸山変電所」がある。碓氷線がいち早く電化された1912年、自家発電されて送られてきた電力を回転変流させる機械室と、蓄電し、登りの走行時に電力を送り込む蓄電池室の2棟が建設された。

充電中に発生する有毒ガスにそなえ、窓が多く、引き戸にも通風しやすいよう特殊な設計が施され、外観は装飾的な要素が加えられ、格調高い作り。

この重要な施設も新線の開通とともに不要となり、その後半世紀近くも放置されていた。重要文化財指定に伴い、崩れ落ちた屋根や割れたガラス窓、破損した壁面などを1億8000万円かけて修理、保存している。しかしどう活用するか、今後の課題は大きい。

碓氷峠に近い山間の地、合併前の松井田町の横川駅界隈はかつて、峠越えに備えた機関区があり、多くの車両を抱え、修理する国鉄マンの町だった。この地域の人口2000人のところに、機関区だけで200人も働き、鉄道に何らかの形で関わる家庭も多く、鉄道に愛着を寄せる土地柄。

だから横川―軽井沢間の碓氷線の廃止は地域にとって衝撃的な出来事だった。安中市に合併する前の松井田町が、その国鉄の機関区の用地、約4500平方メートルを譲り受け、1999年4月の開設したのが、テーマパークの「鉄道文化むら」だ。旧国鉄時代に活躍した蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル車、寝台車、食堂車、さらにはラッセル車など約30車両を展示する。

運転席に座ったり、片道400メートルを往復運転する実体験もできる。ミニSLに乗り、園内1周300メートルの走行なども楽しめる。

鉄道文化むら

運営に当たっている碓氷峠交流記念財団の大野恵司事務局長は「見るだけでなく、体験できるのがここの特徴。体験運転には、遠く沖縄や北海道からもやってくる鉄道ファンもいます」と話す。年間20万人もの人が訪れる人気パークになった。

旧碓氷線のうち、4.7キロが遊歩道「アプトの道」として整備され、多くの人が散策に訪れる。その中間地点にある「峠の湯」という日帰り温泉を運営するのもこの財団。こちらへは鉄道文化むらからトロッコ列車も運行、20分かけて急勾配の乗車体験が出来る。

「アプトの道」では、中高年のグループや年配の夫婦、家族連れなどさまざまな人たちが大自然の中で鉄路の上の散策を楽しんでいる。架線のうえや路上には時折り、野生の猿も出没する。そんな碓氷線の今昔を、訪れた人たちに解説してくれるインストラクターも大活躍している。

登録ガイドはおよそ40人。そのまとめ役が竹馬(ちくば)達雄さんだ。1925年生まれの竹馬さんの実家は横川駅前の旅館「東京屋」。明治の初めに創業したころ、江戸が東京に変わったことにちなんだ屋号とか。国鉄の機関区に近かったこともあり、鉄道の工事関係者のお客が多い旅館だった。

竹馬さんは4代目だが、旧制中学を出て国鉄に入り、東京・王子の変電所に勤務後、地元の丸山変電所に移ったのが、戦争中の1942年。終戦間際に出征したが、敗戦とともにまた元の変電所勤務に。高崎鉄道管理局に転じ、80年の定年まで鉄道人生を歩んだ。その間、旅館は母親と奥さんで切り盛りしていた。

碓氷線の廃止とともに、地域振興のため6年前、民間インストラクターの募集があったとき応募、83歳の現在も現場で活躍中だ。旅館は娘夫婦がやっている。

やはりインストラクターの加藤正夫さんは、大手化学メーカーの安中工場に勤める40代のサラリーマン。父親が機関士をしていて、鉄道文化むらになったところにあった鉄道官舎で育った。そんな環境から横川や碓氷峠の素晴らしさを多くの人に感じてもらおうと、インストラクターになった。仕事のかたわら年間50日の定点解説や、10回以上の引率ガイドもこなしている。

この人たちに共通しているのは、行政が教材として配布するテキスト以外に、自分たちで工夫して資料を作り、訪れた人たちに懇切丁寧に解説する熱心さだ。廃線を逆バネに地域振興に取り組んでいる。

文・今井 亮平

丸山変電所

鉄道文化むらのミニSL

峠の湯

横川名物、峠の釜飯