明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

ヨーロッパの古城を思わせる塔。ニ対の水門の間を高速道路が横切る(写真・長田 浩)

所在地:名古屋市中川区 完成:1930(昭和5)年

ひと息

松重閘門地図

 松重閘門へは名鉄名古屋駅から一駅の「山王」駅から歩いて10分ほど。駅を出て左へ行くと中川運河にぶつかり、そこからは右手に閘門の塔が見える。反対側の塔までは約90メートル。ニ対の塔の間には南北橋があり上には名古屋の環状線(高速道路)が通っている。夜にはライトアップされている。
 塔は東海道新幹線の車窓からも見える。東京から名古屋に行く場合は、名古屋駅に到着する5分ぐらい前から進行右側を見ていると、倉庫やビルの立ち並ぶ間にいきなりライトアップされた閘門の塔が浮かび上がる。それを見て「ああ、名古屋に帰ってきたと安心する」と言う人もいるほどだ。

「水上の貴婦人」 中川運河と堀川つなぐ 名古屋港水運の要

総貨物量約2億1000万トン、貿易額約15兆円(2006年)。現在の名古屋港は取扱貨物量、金額とも日本最大の港だ。

港の南側に広がる巨大な人工島に造られたコンテナヤード。そこから延びた道路網が輸送の主役だが、船による輸送が盛んだった昭和40年代初めまでは港の最深部から名古屋城につながる堀川と、並行して走る中川運河が大動脈だった。

慶長年間、名古屋城築城の資材運搬のために福島正則が掘削・開削した堀川は「母なる川と呼ばれ、江戸時代から伊勢湾と名古屋城下町を結ぶ大事な水路」(名古屋港管理組合)だった。東海道五十三次の名所「宮の渡し」は堀川の河口にあたる。

由緒ある「熱田湊」に近代的な港を築くにあたり、反対する者が多かった。推進派は1906(明治39)年、巡航博覧会船「ろせった丸」を寄港させ、水深のある大きな港が必要なことを訴えた。翌年、名古屋港が正式に開港、船や貨物の量は飛躍的に増えていった。

堀川とその後開削された新堀川などではとても対応できなくなったことから、1926(大正15)年に並行していた自然河川の中川の大幅拡張による運河の建設が始まった。総延長約8キロの掘削土は248万立方メートル、現在の10トン積みダンプカーで10万台分だという。

東洋一の大運河

1932(昭和7)年に開通したとき「東洋一の大運河」といわれた中川運河は名古屋港と当時の名古屋の貨物駅だった国鉄笹島駅を結ぶ。駅の手前で堀川とつなぐことになったが、両河川は水位が2メートルほど違う。そこで造られたのが「松重閘門」だ。船を閘門の内側に入れて、水量を調整して一方の川に移すパナマ運河方式だ。

閘門は1930(昭和5)年に完成した。東西長さ90メートルの水路の両端に高さ約20メートルの塔が2棟ずつあり、一対の塔をつなぐ橋に吊(つ)られた40トンの鉄板を上げ下げした。塔の内部には鋼板を動かすのに使う錘(おもり)が入っている。扉式が多い日本の閘門で、わざわざ両側に塔を建設するやり方は珍しい。

塔は周囲4メートル角で、上部に窓が付いており、どこから見てもほぼ同じ形。下から15メートルくらいのところには中世ヨーロッパの城に見られる「石落とし」に似たひさしがある。その上には三角帽子の屋根をつけた見張り台を設ける。鉄筋コンクリート造の壁の一部に花崗岩が張られており、ライトアップされた姿は「水上の貴婦人」の愛称にふさわしい。

水運の交差点

松重閘門は名古屋市役所土木建築係の藤井信武が設計した。高い建物の少なかった当時としてはひときわ目立った。建築史に詳しい西澤泰彦名古屋大学准教授は「当時は荒古川、山崎川、大江川も大運河にする計画があり、松重閘門は複数の運河が交差する位置にあった。運河の交差点と意識してどこから見ても目立つように設計したのでは」と言う。

欧州の城郭風の意匠については「勉強家の藤井はヨーロッパの文献にも通じていただろうから、こうしたデザインを考えたとしても不思議ではない」と解説する。藤井は1933(昭和8)年に完成した名古屋市役所の設計も担当、ここにも、城の物見台のような屋根を付けた。

中川運河はピーク時の1967(昭和42)年には年間3万2000隻の船が通過、貨物量は約380万トンに達した。しかし、その後は水運の役割は急速に減り、1976(昭和51)年、閘門は46年間続いた役割を終えた。

公共建築にしては装飾性と遊び心あふれるこの水門は引退後も保存、名古屋市の有形文化財に指定されて市のランドマークとなっている。今は2つの閘門の間は埋め立てられ、一部は公園として整備されている。

文・野々村 泰彦

名古屋のパナマ運河

名古屋港管理組合提供

■名古屋のパナマ運河

堀川と中川運河を結び両運河の水位差を調整しながら船を航行させ「東洋のパナマ運河」と名古屋名物になった。写真は供用開始前のテスト中のものとみられ、塔の間にある鉄橋の中央のモーターで鋼鈑を吊り上げている。着物を着た見物人や荷車を引く馬など昭和初期の光景がよくわかる。


日本経済新聞 夕刊 2008年7月10日(木) 掲載

探訪余話

堀川と本町筋

名古屋市の中心よりやや北側にある名古屋城。来年、築城開始400年を迎える。徳川家康が加藤清正や福島正則、前田利光など20もの諸大名に命じて造った平城で、天守閣の金の鯱(しゃち)で有名だ。平日の昼間だったが、外国人の観光客が多かった。あちこちで400年記念事業になっている本丸御殿復元のための募金活動が盛んだ。

お城のある地域は名古屋台地という高台になっている。この高台と南西側に広がる低地部分を東西に分けて南北に流れ、伊勢湾に注ぐのが堀川だ。東京近辺の隅田川などに比べると川幅は広くない。

江戸時代は名古屋城から、「七里の渡し」と呼ばれた河口までは、城下町の最も重要な水路であると同時に両岸に大きな蔵や魚市場、さらには神社や町屋が立ち並び、本町筋と言われて大いににぎわった。復元された天守閣の中にある展示館には、当時の堀川端にあった町屋や本屋などの店が再現されている。

現在の堀川沿いの道を名古屋城の西側の堀の南端から南へ、港の方向に歩いてみる。川幅は場所によって違うが平均15メートルぐらいか。両岸は住宅街で、ところどころ家の間から川が見える。

いくつもの橋が架かっているが、中で有名なのが城から1キロぐらい下った所にある五条橋。もともとは1610(慶長15)年の清須越し(家康の命令で尾張の清須から城下町を丸ごと名古屋に移した世紀の大引越し)、の際に清須から移築された橋だと言う。欄干には擬宝珠(ぎぼうし)が飾られていたが、いまは名古屋城に保管されている。京都・五条大橋のミニチュア版といった風情だ。この橋の東側から西側を見ると、腰の位置ぐらいのところに西側の屋根が見え、東西の土地の高さがずいぶん違うことが実感できる。

四間道界隈

五条橋の東側、堀川に沿った道は大船町通りと呼ばれ、昔の塩問屋の蔵や京都に残るような古い町屋が今でも残っている。さらにその1本西の通りは四間道(しけみち)と呼ばれ、やはりかつての町屋の面影や下町の雰囲気が残っている。

五条橋の東側には今から150年前、安政年間に創業したという「美濃忠」という羊羹で有名な和菓子屋が昔ながらの立派な店を構えている。夏は水羊羹が名物と言う。あんこから自家製というだけあって、甘すぎずなかなかの味だった。

さらに桜通りまで降りて右折、途中、商店街や怪しげな風俗店ビルなどの脇をとおって、高層の名古屋国際センターを見ながら大規模な地下街にもぐり、名古屋駅に。江戸から、現代の高層ビル、迷路のような地下街、そして仕上げは昨年完成したばかりの駅前のミッドランドスクエアビル。現在の名古屋港の最大利用者ともいえるトヨタ自動車のオフィスに加えて、世界の一流ブランドの店が入っており、若者たちでにぎわっていた。

1時間足らずの散歩だが、名古屋の歴史、変化を味わうにはお勧めのコースだ。

文・野々村 泰彦

名古屋城の天守閣

五条橋

四間道の蔵と町屋

江戸時代からの和菓子屋「美濃忠」