明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

噴水広場のある駅舎の夕暮れどき(写真・三島 叡)

所在地:福岡県北九州市 完成:1914(大正3)年

ひと息

門司港駅地図

 門司港地区は海峡の町だから海の幸は豊富だが、門司港駅を出て漂ってくるのは意外にも「焼きカレー」の香り。ご飯の上にカレーとチーズや卵をのせ、オーブンで焼いた素朴なご当地メニューだ。観光客向けの『焼きカレーMAP』を見ると高級店、大衆店あわせて30近いお店の自慢の焼きカレーがずらり。また全国一のフグ水揚げ港、下関が対岸なので、フグのおいしい店もたくさんある。高級な老舗の多い下関に比べ、門司港は比較的値段が手ごろと評判。また潮流の速い海峡で育ち、身のしまった関門海峡タコは有名。おすし屋さんも多い。バナナ輸入は今でも盛んで、バナナ系菓子も色々とある。

筑豊炭輸出で大発展 トンネル開通で衰退 レトロ人気で復活

門司港の開港は1889(明治22)年。明治政府が設定した重要5品目(石炭、米、麦、麦粉、硫黄)の特別輸出港として出発した。同年、九州初の鉄道が博多を起点に走り、2年後には門司港まで延びて「門司駅」と名付けられた。

10年後に対岸の下関駅との間に連絡船が就航、門司駅は九州の表玄関に育っていく。そして手狭になった1914(大正3)年には連絡船桟橋に近い海側の現在地に移転・新築された。

その駅舎が1世紀近くたった今も、優雅なたたずまいを見せている。九州最古の駅舎は木造2階建て、銅板葺(ぶ)き。ネオルネサンス様式と呼ばれる左右対称の外観が印象的だ。

映画『終着駅』の舞台、ローマのテルミニ駅をモデルにしたとも、正面外観を門司の「門」の字になぞらえたともいわれる。駅構内には昭和天皇が立ち寄った際に御座所となった貴賓室をはじめ汽車旅時代の重厚な設備、調度がふんだんに並ぶ。

駅に降り立てばすぐ脇が関門海峡。潮の香りが鼻をつく。駅前広場では、駅舎を背景に写真を撮るグループが絶えない。観光客を乗せた人力車も駆け抜ける。コンテナ船など大型船が通過していくのがビルの谷間に垣間見える。まるで大きな船が町の中を走っているかのような錯覚をおぼえる。

出入隻数日本一にも

水深のある門司港は出炭量日本一の筑豊炭田の積み出し港として栄えた。沖仲仕の数だけで最盛時には8000人を数えた。路面電車が走り、社宅、旅館、劇場、歓楽街などが軒を連ねた。中国・大連など大陸航路や、南方貿易の拠点として日本でも有数の外国貿易港になった。

大正期、1916年には出入港船舶数で横浜、神戸をしのぎ日本一にもなった。その後、花形の欧州航路も開設され、戦時中は出征兵士や軍需物資、軍馬も送り出す。台湾バナナの輸入港にもなり、バナナのたたき売り発祥の地とされる。

日銀西部支店が下関から移転してきたのをはじめ、税関など官庁の出先や商社、海運、金融機関、新聞社の本支社が相次いで進出した。

港の隆盛とともに歩んだ「門司駅」だが、1942年の関門鉄道トンネルの開通で運命が変わる。戦時輸送強化のため優先工事として海底トンネルが完成したのだ。

「門司駅」にとって不運だったのは主に工法上の理由からだが、トンネルの九州側の出口が隣の大里駅構内だったこと。開通を機にそれまでの「門司駅」が門司港駅と改称され、大里駅が新しい門司駅になり現在に至っている。

駅舎は重要文化財

さらに戦後の58年には国道2号の海底トンネル(人道付き)も開通、エネルギー革命による石炭の地位低下も門司港や同駅の退潮に拍車をかけた。88年に駅舎としては初の国の重要文化財となるが、その指定理由は「近代化が進行中の時期の駅舎建築を知る上で重要」という現役の駅としては寂しいものだった。

しかし、高度成長の波に乗れなかったことが幸いした。20年ほど前に北九州市が古ぼけた駅舎を中核にした町興しに着手、それが功を奏する。

町に残った明治、大正の歴史的建造物群の多くをそのまま観光資源として活用した。関門海峡に面したウオーターフロントの開放的で明るい雰囲気とあいまってユニークな観光地「門司港レトロ」が誕生した。年間25万人ほどだった観光客が今では200万人を超える。お目当ての1つはレトロ駅舎「門司港駅」である。この6月には韓国・釜山との間に定期フェリーが就航した。来春には休止中の臨港鉄道を使ったレトロ観光列車の計画も進む。

男たちの汗と石炭で栄えた港町は、海峡のおしゃれな観光の町に変身した。

文・倉田 静也

大正4年ころの門司港

北九州市提供

■大正4年ころの門司港

後背の丘陵から撮った門司港の全景。岸壁に見える三角屋根は大手商社の倉庫群。港内に多く見える小型船は石炭を大型船まで運ぶはしけ。見分けにくいが、新装なった門司港駅も街の中央部に写っている。


日本経済新聞 夕刊 2008年6月26日(木) 掲載

探訪余話

海峡ウォーターフロント

門司港地区は平成に入るころから「レトロ」を軸とした観光地として大きく生まれ変わりつつある。今や町全体が1つのテーマパークになっているといってもよい。

その「テーマパーク」のシンボル的存在がJR九州の門司港駅だ。ヨーロッパの駅などによくある頭端式で駅から全ての路線が放射状にのびる始発駅。現在56人という駅員数もかつては約600人と九州でも1、2を争う規模の駅だった。

関門鉄道トンネルの開通(1942年)で衰退に向かったとはいえ、今も九州の幹線、鹿児島本線の始発駅である。しかしこの門司港駅と次の小森江駅は、その次の門司駅からするとわずか2駅の盲腸線のような存在。下関から関門鉄道トンネルをくぐって門司に入る山陽本線のルートからは完全に外れている。

改札口を出るとすぐ手前左側に、大きな下りの階段口が見える。これが関門連絡船の桟橋まで続く地下道の入り口跡だ。今は板が打ち付けられて桟橋へは行けないが、かつては月に15万人もの乗客が利用した。新天地を求めて中国大陸に渡った人々、東京や大阪、京都の大学に青雲の志を抱いて旅立った若者、初めて九州の地を踏みしめた旅行者・転勤者、そして一時期は出征兵士、大陸からの引揚者や戦死者の遺骨が通った階段でもある。

広々とした駅コンコースへ戻ると古色あふれる設備、調度が目に飛び込む。昔は切符に1、2、3の等級があり、それに応じた待合室が別々に準備されていた。2階にある貴賓室は今、明治・大正期の門司港駅周辺の写真展示室に、1階の3等待合室はしゃぶしゃぶ店になっている。所々にある柱は真鍮(しんちゅう)板をはり、それがピカピカに磨かれているところなどは骨董的価値さえ感じられる。

6年前には駅員の制服を明治5年鉄道発祥時の黒の詰襟スタイルにした。これら設備、調度を含めて駅舎が国の重要文化財に指定されているのだが、「釘1本打つにも市教育委員会から文部科学省に届けを出すから大変」と詰襟服姿の大谷資・門司港駅長。古めかしさを保つため、「自動券売所」などの看板には旧字体が使われているし、自動改札機も木のぬくもりを感じさせる茶色の特製を設置している。

駅を1歩出ると、明治・大正時代の雰囲気を残す様々な建築物群を中心にした観光施設が目に入る。これらを大別すると2つになる。

1つは建物を保存・修復・復元したもの。駅正面は外国貿易で栄えた町らしく「旧大阪商船」、三井物産が使った「旧門司三井倶楽部」などのビルがそれだ。「旧門司税関」や、かつての旧九州鉄道本社ビルで今は鉄道博物館の「九州鉄道記念館」、そして「門司電気通信レトロ館」などもその系統の建物。

もう1つはレトロ観光開発のために新しく築造された建物群だ。黒川紀章氏設計の高層マンション「レトロハイマート」の31階には観光客向けに展望室フロアがある。ここからは門司港全体を眼下に一望できるばかりでなく、関門海峡、さらに対岸の下関地区までをパノラマで楽しめる。

ほかに、複合商業施設「海峡プラザ」や跳ね橋、関門海峡の歴史や現在を総合的に展示したミュージアムなどもある。

レトロ地区とは少し離れているが、見逃せないのは和布刈(めかり)地区。門司港地区から車で数分の岬のような部分にある。ここには小倉出身の作家・松本清張が『時間の習俗』の冒頭で紹介し有名になった和布刈神社が早鞆の瀬戸に向かってたっている。神社の背後には関門トンネルの人道部分の入り口もある。15分ぐらいで対岸の下関まで歩いていける。

「レトロ地区は建築物を巡る観光客で賑わっているが、現在は港湾本来の賑わいは見られない。門司の港は太刀浦コンテナターミナルや新門司フェリーターミナルなど新しい場所に移り、今でも重要な役割を担っている」と北九州市産業経済局の神野右文氏は話している。

文・倉田 静也

駅長室 詰襟制服姿の大谷駅長

旧門司三井倶楽部

跳ね橋をくぐる遊覧船

和布刈神事の行われる磯と関門橋