越すに越されぬ大井川
天下統一を果たした徳川家康は江戸に幕府を開く2年前の1601(慶長6)年に、東海道53カ所に宿場を一斉に設けた。交通の大動脈として東海道の整備を重視していたことを物語る。53次の中で、特色あるのが大井川川越業務を手掛けた島田宿と金谷宿である。
大井川には橋をかけることも渡船も禁止。3代将軍家光時代、弟の駿河国領主忠長は1626(寛永3)年、家光の上洛にあたって、大井川に船を並べて浮橋をつくり、平地のように容易に渡れる工夫をし、誰もが感嘆した。ところが家光は大井川の“架橋”は家康の遺訓に逆らうものだとして、間もなく忠長は大名の座を追われる。忠長の悲劇と大井川架橋が関係あったかどうか、後世に作られた話ではないかと歴史家は指摘しているが、それだけ江戸時代、大井川の渡船・架橋はご法度だった。
蓬莱橋の上流約3キロに島田市博物館がある。常設展示室には江戸時代後期の「旅と旅人」をテーマに、さらに隣接する川越(かわごし)遺跡(国指定史跡)は当時を再現、往時の様子を伝える。
なぜ牧之原で茶園開発が始まったのか
今や数少ない賃取り橋である蓬莱橋はJR東海道本線島田駅より徒歩で20分。同橋を起点に、牧之原台地を巡るウォーキングコースがある。橋を渡ると間もなく、大茶園へ。見晴らしのいい高台に“開拓の父”中條景昭の像が建つ。晴れた日には富士山を一望できる。
中條らはなぜ帰農して、牧之原に入って茶園の開拓をすることを決めたのか。入植を申し入れる前に、中條は茶の栽培をかなり研究したといわれる。広大な牧之原は、幕府の直轄領で放置されたままだったことも、入植を容易にした。「栽培作物として茶を選んだのは非常な達見であったが、適地であったことはその後の発展の経緯から明らかにされるより外なかった。当時としては、すてて顧みられない丘陵がそこにあったからというところが端緒であったとみてよい」(大石貞男「牧之原開拓史考」より)
中條は1871(明治4)年の廃藩置県の際、神奈川県令(知事)の内示を受けたが、「お茶の木のこやしになるのだ」と固辞し、終生牧之原開拓に情熱を注ぎ、牧之原の地で70歳の生涯を終える。葬儀委員長は勝海舟だったという。
坂本龍馬を暗殺した男とされる今井信郎も入植した幕臣の1人。今井の入植時期は遅れて1878(明治11)年。京都見廻組の時、同士と共に坂本龍馬を暗殺したと言われているが、真偽は定かではない。入植後は晴耕雨読の生活で、実験農業にも精を出したようだ。
入植した幕臣の子孫は、開拓の苦労をそれぞれに語り継ぐ。「茶園経営のなかに食糧自給政策を取り入れ、畑作雑穀や水田にまで手を伸ばした。早朝、木刀を振っていた。台地のため蓬莱橋の袂(たもと)まで水汲みに出向くほど水確保が女性にとっては大変だったと聞く。当時の掘り井戸が今でも残っている」(大草高重の子孫大草省吾氏)
「自ら開墾に専念した後、付近の農家を雇って開墾させた。茶畑には彼らの名前をつけ、生産性の向上を図った。また風除けに土塁の代わりに大きな松を植え、土地に根ざしたやり方を積極的に取り入れた」(森盛澄の子孫森猛男氏)。家屋や井戸などに開拓時代の面影を今に残している。
渋沢栄一と牧之原開拓
最後の将軍徳川慶喜は1869(明治2)年に謹慎を解かれた後も駿府(静岡)で過ごす。駿府在住の30年間、慶喜邸を訪れる人は多かった。幕臣渋沢栄一もそのひとり。渡欧中に維新の報に接し帰国、明治元年12月に慶喜を募って駿府に向かい、謹慎中の旧主と会う。滞在は翌2年11月までと短かったが、渡欧で学んだ実業の知識と経験を結実させた最初の合本(株式)組織「商法会所」をこの地に残している。今日の株式会社の概念を導入、銀行と商社を混合した組織である。『徳川慶喜家扶日記』によると、渋沢は駿府を離れた後も、度々慶喜邸を訪問、種々の面倒を見ていたという。
1874(明治7)年6月、中條と大草が牧之原から慶喜を訪ね、新茶を献上したことや他の旧幕臣がさつまいもなど開拓地でつくった農作物を手に訪問したことが同日記に記されている。「かつての腹心が苦労の末、自ら収穫したお茶などを献上。これらの品々を特別の思いで受け取ったことが読み取れる」(旧幕臣研究家・前田匡一郎氏)。
中條は、廃藩置県の際の家禄奉還金を基に一種の銀行業務を行う「苟美館(こうびかん)」を設立、また共同製茶を目指す「牧之原製茶会社」(株式)の設立計画を進めた。苟美館では入植者の資金を確保し、牧之原への定着を図る。一方、製茶会社は近代的な茶園経営を展開し、組織の繁栄を考えるという時代の流れを見据えた取り組みであった。商法会所の牧之原版ともいえよう。渋沢の合本主義思想が旧幕臣の訪問が絶えない慶喜邸を通じて、中條に伝わったとしても不思議ではない。だが、残念ながら苟美館は失敗に終わり、新会社設立は果たせなかった。
文・宮内 章好
川越業務を行った川会所
ギネスブックが認めた世界最長の木造橋
大井川右岸に広がる牧之原大茶園
開拓時代の面影を残す井戸
多くの旧幕臣が訪れた駿府・慶喜邸




