明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

通行幅わずか2.4メートルの農道橋は映画・テレビのロケにも使われる(写真・長田 浩)

所在地:静岡県島田市 完成:1879(明治12)年

ひと息

蓬莱橋地図

 昭和20年代に大ヒットした『あなたのリードで 島田もゆれる』で始まる「ゲイシャ・ワルツ」(西条八十作詞、古賀政男作曲)の“島田”は日本髪のひとつ「島田髷(まげ)」のこと。諸説があるが、東海道島田宿の遊女が結い始めたというのが通説だ。
 江戸時代に京、江戸を中心に全国に広まった。髪形も50−60種にのぼるといわれるが、やはり代表は現代の花嫁にみる文金高島田だろう。“発祥の地”島田市では毎年9月に「島田まげ祭り」が催され、さまざまな島田髷を結った浴衣姿のあでやかな女性たちおよ50人が、奉納踊りをしながら街中を練り歩く。

失業した武士と人足 牧之原開墾でお茶生産 大井川に世界最長木造橋

静岡県の牧之原台地はわが国最大の茶どころである。萌黄(もえぎ)色の茶畑が一面に広がる高台に立つと眼下にゆったりと大井川が流れる。「越すに越されぬ大井川」。東海道の難所に明治初期、橋が架けられた。全長897・4メートルの蓬莱橋はいまも「世界一長い木造の橋」として親しまれている。

この木橋は牧之原茶園の開発史と深いかかわりをもつ。元号が慶応から明治に改まった1868年、徳川父祖の地でもある駿府藩(のち静岡藩)では最後の将軍、慶喜の後の宗家となる家達(いえさと)が藩主に封じられ、同時に慶喜も謹慎の身を駿府(静岡市)に寄せた。

大勢の幕臣が江戸から集団移住した。慶喜を駿府まで警護してきた総勢300人の「新番組」は版籍奉還により解散し、後に家禄も失った。

剣を鍬に持ち替え

隊長だった中條景昭(ちゅうじょうかげあき)らは、自活の道を探った。大井川西方に広がる牧之原台地の開発に着目、静岡藩政補翼(ほよく)の勝安房(海舟)らに入植を願い出た。静岡藩は当時、新政府が外貨獲得を目指し奨励する輸出品のひとつ、茶に殖産の活路を求めて開墾事業を重視していた。

中條は旗本の出で、武術を指南する剣客であった。元旗本の勝は快く協力を約し、中條ら旧幕臣約300人は69年「開墾方」と称して牧之原に入植した。面積1500町歩(1500ヘクタール)の茶園開発の第1歩である。

しかし、台地は雑木が生い茂り、地味のやせた不毛の原野であった。資金も十分でなく、刀を鍬(くわ)に持ち替えた労働の日々に耐え切れず離脱者も多かった。

一方、駿府から西南に25キロほど、対岸が牧之原にあたる東海道・島田宿には別の失業者がいた。大井川の渡しを業としていた川越(かわごし)人足たちだ。

幕藩体制のもと、大井川は架橋も渡船も禁じられていた。旅人は人足を利用、蓮台(れんだい)や肩車で渡河した。その川越制度が廃止されたため、失職した川越人足約100人も71年、牧之原に入植した。旧幕臣や川越人足、それに近隣農民らによって、牧之原大茶園の基礎がつくられ、茶葉栽培から製茶までの殖産興業が動き出す。

島田在住の川越人足は、開墾地への往復に回り道を余儀なくされた。旧幕臣らも事業が軌道に乗るにつれ、島田の町との往来が増え、架橋を求める声が強まる。

1878(明治11)年、開墾人総代が中心となり、「農業一途使用仮橋架橋願書」を静岡県に提出した。翌年1月、大井川河口から約10キロ上流に蓬莱橋が完成した。

ギネスブック入り

南アルプスを水源とする、あばれ川。当初は橋脚が不完全で、完成間もなく大幅な架け替え工事を行った。度重なる増水で流失と補修を繰り返し、1937(昭和12)年には復旧を1度断念したほどで、65年には橋脚をコンクリート製にした。昨年7月の台風でも、牧之原側の右岸部分約70メートルが流失、今年3月に8カ月ぶりの全面開通にこぎつけた。平成に入っての被災は、今回で8度目という。

生活に密着する農道橋だが、修復費は絶えず重くのしかかった。開拓農民らの出資により造られたため、関係者以外からは通行料金をとった。いまも賃取橋(大人100円)である。

1997(平成9)年、蓬莱橋は英国ギネス社から「世界一長い木造歩道橋」の認定を受けた。太陽光を利用したソーラーライトを使って、日没と共に緑色の光が橋の輪郭を浮かび上がらせ、観光名所になった。

開通した橋を歩くと、木特有の柔らかい感触が伝わってくる。島田側の橋番小屋そばからみる蓬莱橋は、1本の“木の道”となって、大茶園のある台地へと吸い込まれていく。人と自転車しか通らぬ橋には、懐かしさと独特のぬくもりがある。

文・宮内 章好

昭和初期の茶園と製茶工場

島田市博物館発行の図録より

■昭和初期の茶園と製茶工場

今日5,000ヘクタールというわが国最大の茶園を有する牧之原だが、昭和初期の茶園面積は3,000ヘクタールだった。地区内に1908(明治41)年の静岡県農事試験場茶業部に続いて、大正には国立茶業試験場が設置された。民間の製茶工場の建設も相次ぎ製茶の近代化が進んだ。


日本経済新聞 夕刊 2008年6月12日(木) 掲載

探訪余話

越すに越されぬ大井川

天下統一を果たした徳川家康は江戸に幕府を開く2年前の1601(慶長6)年に、東海道53カ所に宿場を一斉に設けた。交通の大動脈として東海道の整備を重視していたことを物語る。53次の中で、特色あるのが大井川川越業務を手掛けた島田宿と金谷宿である。

大井川には橋をかけることも渡船も禁止。3代将軍家光時代、弟の駿河国領主忠長は1626(寛永3)年、家光の上洛にあたって、大井川に船を並べて浮橋をつくり、平地のように容易に渡れる工夫をし、誰もが感嘆した。ところが家光は大井川の“架橋”は家康の遺訓に逆らうものだとして、間もなく忠長は大名の座を追われる。忠長の悲劇と大井川架橋が関係あったかどうか、後世に作られた話ではないかと歴史家は指摘しているが、それだけ江戸時代、大井川の渡船・架橋はご法度だった。

蓬莱橋の上流約3キロに島田市博物館がある。常設展示室には江戸時代後期の「旅と旅人」をテーマに、さらに隣接する川越(かわごし)遺跡(国指定史跡)は当時を再現、往時の様子を伝える。

なぜ牧之原で茶園開発が始まったのか

今や数少ない賃取り橋である蓬莱橋はJR東海道本線島田駅より徒歩で20分。同橋を起点に、牧之原台地を巡るウォーキングコースがある。橋を渡ると間もなく、大茶園へ。見晴らしのいい高台に“開拓の父”中條景昭の像が建つ。晴れた日には富士山を一望できる。

中條らはなぜ帰農して、牧之原に入って茶園の開拓をすることを決めたのか。入植を申し入れる前に、中條は茶の栽培をかなり研究したといわれる。広大な牧之原は、幕府の直轄領で放置されたままだったことも、入植を容易にした。「栽培作物として茶を選んだのは非常な達見であったが、適地であったことはその後の発展の経緯から明らかにされるより外なかった。当時としては、すてて顧みられない丘陵がそこにあったからというところが端緒であったとみてよい」(大石貞男「牧之原開拓史考」より)

中條は1871(明治4)年の廃藩置県の際、神奈川県令(知事)の内示を受けたが、「お茶の木のこやしになるのだ」と固辞し、終生牧之原開拓に情熱を注ぎ、牧之原の地で70歳の生涯を終える。葬儀委員長は勝海舟だったという。

坂本龍馬を暗殺した男とされる今井信郎も入植した幕臣の1人。今井の入植時期は遅れて1878(明治11)年。京都見廻組の時、同士と共に坂本龍馬を暗殺したと言われているが、真偽は定かではない。入植後は晴耕雨読の生活で、実験農業にも精を出したようだ。

入植した幕臣の子孫は、開拓の苦労をそれぞれに語り継ぐ。「茶園経営のなかに食糧自給政策を取り入れ、畑作雑穀や水田にまで手を伸ばした。早朝、木刀を振っていた。台地のため蓬莱橋の袂(たもと)まで水汲みに出向くほど水確保が女性にとっては大変だったと聞く。当時の掘り井戸が今でも残っている」(大草高重の子孫大草省吾氏)

「自ら開墾に専念した後、付近の農家を雇って開墾させた。茶畑には彼らの名前をつけ、生産性の向上を図った。また風除けに土塁の代わりに大きな松を植え、土地に根ざしたやり方を積極的に取り入れた」(森盛澄の子孫森猛男氏)。家屋や井戸などに開拓時代の面影を今に残している。

渋沢栄一と牧之原開拓

最後の将軍徳川慶喜は1869(明治2)年に謹慎を解かれた後も駿府(静岡)で過ごす。駿府在住の30年間、慶喜邸を訪れる人は多かった。幕臣渋沢栄一もそのひとり。渡欧中に維新の報に接し帰国、明治元年12月に慶喜を募って駿府に向かい、謹慎中の旧主と会う。滞在は翌2年11月までと短かったが、渡欧で学んだ実業の知識と経験を結実させた最初の合本(株式)組織「商法会所」をこの地に残している。今日の株式会社の概念を導入、銀行と商社を混合した組織である。『徳川慶喜家扶日記』によると、渋沢は駿府を離れた後も、度々慶喜邸を訪問、種々の面倒を見ていたという。

1874(明治7)年6月、中條と大草が牧之原から慶喜を訪ね、新茶を献上したことや他の旧幕臣がさつまいもなど開拓地でつくった農作物を手に訪問したことが同日記に記されている。「かつての腹心が苦労の末、自ら収穫したお茶などを献上。これらの品々を特別の思いで受け取ったことが読み取れる」(旧幕臣研究家・前田匡一郎氏)。

中條は、廃藩置県の際の家禄奉還金を基に一種の銀行業務を行う「苟美館(こうびかん)」を設立、また共同製茶を目指す「牧之原製茶会社」(株式)の設立計画を進めた。苟美館では入植者の資金を確保し、牧之原への定着を図る。一方、製茶会社は近代的な茶園経営を展開し、組織の繁栄を考えるという時代の流れを見据えた取り組みであった。商法会所の牧之原版ともいえよう。渋沢の合本主義思想が旧幕臣の訪問が絶えない慶喜邸を通じて、中條に伝わったとしても不思議ではない。だが、残念ながら苟美館は失敗に終わり、新会社設立は果たせなかった。

文・宮内 章好

川越業務を行った川会所

ギネスブックが認めた世界最長の木造橋

大井川右岸に広がる牧之原大茶園

開拓時代の面影を残す井戸

多くの旧幕臣が訪れた駿府・慶喜邸