明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

新旧疎水の合流点に建つ御所水道ポンプ室(写真・多田 征樹)

所在地:京都市・大津市 完成:1890(明治23)年

ひと息

疎水記念館地図

 南禅寺のもうひとつの名物が豆腐料理。近隣に老舗の専門店が何軒も並ぶ。もともと、精進料理として提供し、参拝客をもてなしていた湯豆腐が評判を呼び名物になった。江戸時代の書院を料亭にした「順正」など夜間のライトアップに映える山水庭園もご馳走(ちそう)だ。
 屋敷町に疎水からの導水を生かした名園を造ったのが明治の庭師、小川治兵衛。南禅寺向かいにある山県有朋の別荘、無鄰庵(むりんあん)の池泉回遊式庭園は代表作だ。野村美術館(茶器、能)や泉屋博古館(せんおくはくこかん)(青銅器)など富豪の別邸に建つ蒐集(しゅうしゅう)品美術館もある。

湖水を京へ!若き技師の挑戦 古都復興の活力に

緑豊かな京都東山の山麓(さんろく)。その谷間に小ぶりながら瀟洒(しょうしゃ)な煉瓦(れんが)建築がある。「御所水道ポンプ室」という。琵琶湖疎水の水を御所に送るため1912(明治45)年にできた。

ここで汲(く)み上げた水をポンプで背後の山に設けた貯水池に蓄えた。御所の紫宸殿(ししんでん)棟上より40メートル高く4キロ先の敷地まで十分な水圧で送水・消火できる仕組みだ。

御所の防火施設とあって建設は入念に準備された。用水の基本設計は田辺朔郎(さくろう)、ポンプ室の建屋設計は片山東熊(とうくま)があたった。田辺は20余年前に琵琶湖疎水を完成させた英雄的技師で、東京、北海道などに赴任した後、第二の故郷で京都帝大教授に迎えられていた。片山は京都、奈良の国立博物館や東京の迎賓館(旧東宮御所)を手掛けた宮廷建築家である。

ポーチや円柱付きのバルコニーを配したネオルネサンス風のつくり。足もとでは新旧二筋の疎水が洞門を流れ出て合流、美しい景観を作っている。

日本人だけで完成

琵琶湖疎水は琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水した水はトンネルをくぐり、山科山麓を走りぬけて京都・粟田口の蹴上(けあげ)に出る。

明治維新で東京へ遷都されると「千年の都」は深刻な地盤沈下に見舞われた。人口が減り産業も衰えた。これを憂いた3代目府知事の北垣国道は疎水建設を再生復興の足がかりにしようと考えた。琵琶湖と京を水運で結ぶ構想は平清盛のころからあり、江戸時代にも企画する者がいた。

陳情に上京した北垣は北海道開拓使時代に知った工部大学校(東大工学部の前身)校長の大鳥圭介に相談した。大鳥は即座に学生だった田辺を紹介した。田辺が卒論で「琵琶湖疎水計画」をまとめていることを知っていたのだ。

北垣は元過激な尊王派、大鳥は戊辰戦争で箱館まで転戦した旧幕臣、田辺は江戸育ちの学者の家系。それぞれ出自は異なるが建国の意気に燃えていた点で共通する。46歳の北垣は弱冠21歳の田辺をプロジェクトリーダーに抜擢(ばってき)、巨額の予算をつけた。市民にも税による負担を求めたので怨嗟(えんさ)の声が上がった。

コストを抑えるためにお雇い外国人は使わなかった。最大の困難は長さ2.4キロ、日本で最長のトンネル掘削だった。多くの殉職者を出した難工事は、竪坑(たてこう)を採用した田辺の創意工夫で着工から5年後の明治23年に開通した。

初の水力発電所

田辺は土木技師として優れていただけでなく先見の明があった。当初は水車動力の活用を目指したが、米国で水力発電が実用化したことを知り、発電所に計画を変更した。日本で最初の商用発電が疎水の完成と同時に始まった。電力は京都の街に灯(あか)りをともし、これも日本初の路面電車を走らせた。

インクラインと呼ぶ傾斜鉄道で三十石船をそのまま台車に載せ運河間を移動する動力にもモーターを使った。日本海の荷を琵琶湖を経て淀川経由で大阪湾まで運ぶという舟運ルートが完成した。

陸上輸送の進歩でインクラインは戦後間もなく廃止となるが、上水道としての疎水はいまも立派な現役である。京都市の上水道の96%をまかなっており、市民はいまだ渇水の苦労を知らない。

疎水は思わぬ恵みももたらした。水車計画が実行されたら工場群が建つ予定だった疎水の周辺には、導水庭園を持つ豪壮な屋敷が立ち並んだ。南禅寺を経て銀閣寺方向に北上する疎水沿いの道は花木が植えられ「哲学の道」の愛称がついた。遊歩道は沿道の名刹(めいさつ)とあいまって古都の観光資源に大化けした。

明治の時代、壮年知事と青年技師の出会いで実現した公共事業は、時をふるにつれ、ますますありがたみを増している。

文・名和 修

南禅寺水路閣

 

■南禅寺水路閣

南禅寺の広い境内を切り裂くように架かる煉瓦造りのアーチ式水道は古都の奇観。仏教弾圧がくすぶる時代、幕府と縁の深い禅寺だったために、明治新政府による「見せしめ説」もあるが、いまや寺のお宝だ。


日本経済新聞 夕刊 2008年5月15日(木) 掲載

探訪余話

疎水ウオーキング

琵琶湖疎水は滋賀県大津の三保ヶ崎で琵琶湖から取水、長等山を第1トンネルで抜け、山科に出る。山科盆地の北辺に沿って西に進んだ後、第2トンネル、第3トンネルを抜け、蹴上に出て明治末に増設した第2疏水と合流する。

ここから南禅寺までの間は高低差があり、水力発電に利用した。一方で、船はインクラインを使い荷物ごと陸上を運んだ。疎水関連の遺産は2つの船溜り周辺に集中する。地下鉄東西線の蹴上駅のすぐそばだ。

インクラインの台車やレール、南禅寺脇を走る水路閣などが史跡に指定されている。南禅寺船溜り跡には「琵琶湖疎水記念館」がある。

ここでは明治初期の京都の様子を知り、疎水工事の関連資料や立体模型、田辺朔郎ら当時活躍した技師らの遺品を見ることができる。

当時、水力発電に使った水車や発電機の実物も保存してある。疎水の全体像や往時の土木工事のあり様がよくわかる。こうした産業遺産に触れるのも興味深いが、今も現役の疎水をたどって歩くのも、趣のある京都散策である。坂道が多いので体力がいるが疎水沿いに、もうひとつの京都が見える。

地下鉄の蹴上から一つ先の御陵(みささぎ)駅で降り、国道を渡って閑静な住宅地の坂道を北上すると「山科疎水」にぶつかる。

天智天皇陵の北側に沿って疎水が豊かな水をたたえて流れている。沿道は遊歩道公園になっていて冬はツバキ、春は桜、秋は紅葉と京の町中にない風情がある。

建設事業を後押した伊藤博文、井上馨、松方正義ら明治政府の大物が揮ごうした扁額を彫りこんだトンネルの洞門があり、日本初の鉄筋コンクリート土橋などもある。

御所用水ポンプ室の建つ第3トンネルで第2疎水と合流した流れは南禅寺に下り、運河となって岡崎地区を鴨川方向に向かう。平安神宮をめぐる運河の両岸は桜の名所である。3月末から5月初めは南禅寺船溜りから「十石船めぐり」を運航している。水面に映る桜は見ごたえがある。

もうひとつの流れは蹴上から北に向かう疏水分線。高度を維持しながら南禅寺境内を水路閣でまたぎトンネルをくぐる。若王子神社から慈照寺(銀閣寺)付近までふたたび水路となって路傍を走る疏水分線の堤は「哲学の道」で親しまれる全長1.6キロの遊歩道。哲学者・西田幾多郎がこの道を散歩しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。

疎水には鯉が泳ぎ、夏は源氏ボタルが舞う。桜などの花木が堤を蔽う宅地の遊歩道だが、観光シーズンは人が列をなし思索とは縁遠い賑わいとなる。それでも、道沿いには永観堂、法然院などの名刹がならび飽きることがない。

観光のメインストリートを外れるとおおきな邸宅が並ぶ閑静な町並みが広がる。疎水の分流が辻々を流れ風情がある。

野村美術館は野村證券を興した野村徳七が蒐集した茶の湯と能の美術館。隣には非公開ながら別邸の野村碧雲荘がある。

泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、旧住友財閥の当主住友家の別邸。敷地の一部を美術館にした。住友家は江戸時代に銅の精錬から事業を興したことから中国古代青銅器類と中国書画を当主が熱心に集めた。中国の殷(商)、周時代を中心とした青銅器は一見に値する。

これらの屋敷群や南禅寺周辺の料亭はどれも疎水から引きこんだ導水を庭園に利用している。疎水が京都の「命の水」と言われるのは上水道による飲み水だけではないことが実感できる。「琵琶湖疎水記念館」は地下鉄東西線「蹴上」下車徒歩7分、入場無料。月曜休館。

文・名和 修

疎水記念館

インクライン

山科疎水

哲学の道

発電取水所脇に建つ田辺朔郎像