明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

最初にできた彰栄館。塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねる(写真・長田 浩)

所在地:京都市上京区 完成:1884(明治17)年

ひと息

同志社大学彰栄館地図

 今出川キャンパスに建つ5つの重要文化財は、いずれも1800年代に造られた煉瓦造りのクラシックな建物群だ。隣接する京都御苑や相国寺を訪れた際に学内に立ち寄り、新島襄が心血を注いだ英学校の雰囲気を味わってみてはどうだろう。
 京都御苑・今出川門の向かい側の正門から入り、左に向かえば昔の図書館・有終館がある。そこを右折すると美しい塔屋で知られるクラーク記念館、ハリス理化学館、礼拝堂、彰栄館が並んでいる。正門から彰栄館までは約250メートル。彰栄館脇の西門から出たところが、京都の主要路・烏丸(からすま)通である。

老農、二ドル拠金の力 薩摩藩邸跡に西洋建築 新島襄の情熱実る

上州安中藩の藩士だった新島襄は1864(元治元)年、米商船の船底に身を潜め密航を図った。このとき21歳。江戸で蘭学を学ぶころから、キリスト教を通じて西欧文明に近づくことを考えていたという。船旅1年の間に漢訳、英訳の聖書を読み、キリスト教への傾斜を深めていく。

キリスト者の熱弁

米国ボストンで勉学中、新島は明治政府派遣の岩倉(具視)使節団に同行し、晴れて公的な資格を得た。そして74(明治7)年、キリスト教伝道団体(新教)の宣教師として日本に派遣されることになる。

帰国に際しバーモントの田舎町で開かれた宣教師の大会で挨拶(あいさつ)の機会を得た新島は、3000人を前に、かねての持論「日本における教育の重要性」に熱弁をふるった。涙を流し、何度も絶句し、学校設立の志を訴えたという。話が終わらぬうち、1人の紳士が1000ドルの寄付を申し出た。続いてまた1人が1000ドル――。たちまち5000ドルほどが集まっていった。

新島が演壇を降りようとしたときのことだ。粗末な身なりの老農が歩み出て、所持金全額と思われる2ドルを差し出して言った。「帰りの汽車賃だが、私の足はまだ丈夫だ。家まで歩いて帰れるだろう」

帰国後、新島はこのエピソードを何度も語り、人々に学校設立へ協力を求めている。新島の事績に詳しい本井康博・同志社大学神学部教授は「1000ドルは現在の何千万円にもあたる大金。しかし人に訴える力は2ドルの方がずっと大きかったでしょう」と語っている。

キリスト教に風当たりの強い時代であったが、京都府顧問の山本覚馬が、新島の熱意に大きく応えた。元会津藩士の山本は広い人脈を持つ実力者で、どういういきさつか京都・相国寺門前の薩摩藩邸跡地を所有していた。その5900坪(約1万9000平方メートル)を学校建設のために、500円という超安値で売り渡したのである。

学内に煉瓦建築群

同志社は1875(明治8)年に小規模の英学校としてスタートしていた。薩摩藩邸跡に移るのはその翌年。さらに数年後、煉瓦(れんが)建て校舎の建設をスタートさせる。設計にあたったのは新島に先立ち日本に派遣されていた米人宣教師のD・C・グリーンであった。

宣教師ながら建築の専門家、と思いたいが、そうではなかった。子供のころ祖父の煉瓦積みを見ていた、という経験を生かし設計した。施工は京都の町大工で、煉瓦建築は初めてだった。この危ないコンビが協力し合い、京都駅に次いで京都で2番目の煉瓦建築「彰栄館」を造り上げていく。

グリーンは続いて礼拝堂と書籍館(現・有終館)も設計した。1回、2回と実績を重ねるうちに知識も技術も向上したようで、建物は大きくなり、見かけも立派になっていく。彼が設計した3館は、クラシックな姿を現在に残しており、後に造られた2館とともに国の重要文化財に指定されている。

校舎の建築が進むころ、新島は英学校の大学昇格を目指し、行動を開始していた。すでに健康を害しており、ドイツ人医師ベルツに「いつ死んでもおかしくない」と言われるほどだった。私立学校初の大学昇格が新島の悲願である。最後の力を振り絞り、国相手の交渉を続けていたのだろう。

同志社英学校の動きを知ったいくつかの私立学校が大学昇格運動を開始した。その中からトップを切って認可されたのが、福沢諭吉の慶応義塾であった。キリスト者の新島、政府に顔の利く福沢。その差が表れた、と考えられよう。

1890(明治23)年、新島は腹膜炎によって遂に力尽きる。享年46。英学校の礼拝堂で新島の葬儀が行われた日が、慶應義塾・大学部の開校日であった。同志社の大学昇格が成るのは1912年。新島の死後22年のことである。

文・今泉 恂之介

新島旧邸

同志社大学提供

■新島旧邸

 「新島旧邸」は、同志社英学校が8人の生徒だけで発足した校舎跡を新島が購入し、住居を新築したもの。応接間(写真)は職員室、会議室、教室などに使われていた。


日本経済新聞 夕刊 2009年1月22日(木) 掲載

探訪余話

御所と名刹に接するキャンパス

京都の地図で同志社大学今出川キャンパスを調べると、たいへんな場所にあることが分かる。南側が京都御苑、北側が名刹の相国寺と接しているのだ。しかも敷地の今出川通りに面する部分は、古文書で有名な冷泉(れいぜい)家を取り囲んでいる。どうしてこういう場所に大学を、しかも私立大学を作ることができたのか。

京都府顧問、山本覚馬からわずか500円で買い取った薩摩藩邸跡の5900坪が、同志社大学今出川キャンパスの中心部である。国指定重要文化財5件のうちの4件、彰栄館、礼拝堂、ハリス理化学館、クラーク館がその中に並んでいる。ただだし当初は、学校用地(薩摩藩邸跡)の南側に公家の家が立ち並んでおり、大学関係者は「当初のままだったら今出川キャンパスとは呼べなかった」と語っている。

同志社はその後、年月をかけて公家屋敷の買い取りを進め、京都市市街地北部の主要な道路・今出川通りに面するまでになる。しかし和歌の師範家、冷泉家の屋敷だけは、さすがに買い取ることができなかった。なにしろ同家の時雨亭文庫は藤原定家筆の古今和歌集を初め、国宝、重要文化財など、きわめて貴重な古文書類の収蔵館だ。現在は同大の建物が「コの字」型に冷泉家をガードする、といった形になっている。

今出川通りを挟んだ南側が京都御苑で、同志社大学の正門が今出川御門の真向かいになっている。正門から横断歩道を渡り、御門を入れば、南北約1300メートル、東西約700メートルという広大な御所の中に入る。

もっとも自由に出入りできるのは環境庁所管の京都御苑(国民公園)の部分で、その中に京都御所、皇室の方々が宿泊する大宮御所、仙洞御所がある。通常は公開されていないが、京都御所、仙洞御所は宮内庁の許可を受ければ入場できる(申し込みに特別な制限はない)。春と秋には許可なしで入れる一般公開の期間が設けられている。

山本覚馬が所有していた薩摩屋敷跡は相国寺の門前にあったが、同志社の敷地はその後に拡大されて、門前だけでなく寺の西側にも接するようになった。仏教の本拠地ともいえる京都は古来、キリスト教排斥のムードがあり、いまもって厳しい態度をとる宗派もあるという。

ところが相国寺はキリスト教にも寛容で、同志社の拡大に理解を見せていた。そのため同大は相国寺の地所を一部買い取ることができ、さらに借地もして現在のキャンパスになっている。

相国寺は一般に広く知られた寺とはいえないが、足利3代将軍義光が約10年の歳月を費やして建設した臨済宗相国寺派の大本山である。超人気寺院の金閣寺、銀閣寺を末寺に従えている、というだけで寺格の高さが知れるだろう。同寺の法堂(重要文化財)は豊臣秀頼によって作られた桃山時代の建築で、日本最古の法堂とされている。堂の本尊の釈迦如来は運慶作。天井には狩野光信筆のみごとな龍図が描かれており、鳴き龍として有名だ。龍の下に立って手を叩くと、「カラカラ」という大きな音が堂内に響き渡る。

それともう1つ、同志社関係で行ってみたい場所がある。御苑東側の寺町通りを行くこと約15分、通りの左側に立つ「新島旧居」である。元来は同志社英学校だったが、新島が跡地を購入し、住居としたもの。セントラルヒーティング、板張りの洋式トイレがある一方、障子・欄間の部屋、箱階段などもある和洋折衷建築である。京都市の有形文化財で、春秋の水、土、日曜日などに公開されている。入場無料。

文・今泉 恂之介

冷泉家、後方は同志社大

礼拝堂(1886年竣工)

クラーク記念館(1894年竣工)

御所の紫宸殿

相国寺の総門