明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

正面玄関上と煙突に開拓使の星印をいただく(写真・三島 叡)

所在地:北海道札幌市 完成:1890(明治23)年

ひと息

サッポロビール博物館地図

北海道は、山海からの食材の宝庫だが、第一はなんといっても海の幸だ。魚のほか、イカ、タコ、カニ、ウニ、アワビ、イクラ、各種の貝はいずれもご当地自慢の味で、どの店に行ってもまず外れがない。ジンギスカン、ラーメンも相変わらず盛ん。ジンギスカンは、店ごとに独自の肉とタレにこだわっているし、ラーメンも多種多様。昔からの有名店の多くも健在だ。このところ、札幌の味の売り物の1つになっているのはスープカレー。それぞれ具は味付けに趣向をこらしている。乳製品、ことにチーズも北海道の魅力の1つ。手作りのチーズに情熱をささげている職人も多い。

明治煉瓦建築の代表作 開拓使事業の優等生 国産ビール醸造

堂々たる風格といい、均整のとれた美しさといい、また煉瓦(れんが)の赤と蔦(つた)の緑の落ち着いた色合いといい、明治期煉瓦造り建築の代表的遺構といわれている。

正面玄関の上の壁と後方の高い煙突のてっぺんに、大きな赤い星がついている。今はサッポロビールの商標になっているが、もともとは明治政府の北海道開拓使のシンボルマークであった。理想の星、北極星を表している。

五稜の星

この五稜の星のマークが示すように、北海道のビールと関連諸施設をまず造ったのは政府であった。ビールだけではない。1869(明治2)年に開拓使が設置されるや、屯田兵、石炭の採掘、西洋農法の移入、そして30種を超える新産業の立ち上げなどの施策はすべて官の手で推し進め、軌道に乗ってから民間に払い下げた。

国産ビール醸造の創業期には、失敗と成功のさまざまなドラマが繰り返された。今はビール博物館として整備されているこの赤レンガ館も、そうした波乱をくぐり抜け生き続けてきた。

開拓使の初期、先頭に立ったのは、初代次官から長官となった黒田清隆であった。黒田は熱情と剛腕のため方々で衝突を起こしたり権力闘争を演じたりしたが、ビール事業にだけは終始変わらぬ愛着を持ち続けたといわれている。

黒田の意を受けて、村橋久成という行政官と中川清兵衛という技術者がビール製造に心血を注いだ。さまざまな苦難を乗り越えて1876(明治9)年、ついに「開拓使麦酒醸造所」を創設、赤い北極星をマークとした「札幌ビール」を世に送り出すことに成功する。博物館の展示には発祥に深くかかわった2人の紹介コーナーがある。

最初に井戸を掘った人の多くがそうであったように、この2人もまた、情熱を燃やし切ったあと失意の晩年を送った。村橋は開拓使の廃止に嫌気して退職、中川は増え続ける生産量に技術の限界を感じて引退、ともにさびしい最期をとげている。

ビール博物館

払い下げを受けて1887(明治20)年に札幌麦酒会社が誕生、生産量は年々増えていった。一方、全く違う分野で、莫大(ばくだい)な費用をかけた煉瓦造りの工場の建設が、1889(明治22)年から翌年にかけて札幌郊外で進められた。

有望産業と目されたビート糖製造の札幌製糖会社の工場である。設計はドイツ設計事務所と古い記録にあるが、実際は北海道庁建築課が深くかかわったと考えられている。同じころ、同課が建てた北海道庁本庁と細部がきわめてよく似ているからである。

3階建て、塔高約16メートル、左右約85メートル、総煉瓦造り――。大きく美しい建物は人々を驚かせたが、肝心の製糖会社は10年余りであっけなくつぶれてしまった。原料のビートの確保に誤算があったうえ、黎明(れいめい)期にありがちな不祥事が頻発したためであった。

民営化で事業が軌道に乗ったビールの方は工場増設の必要に迫られていた。空き屋になったままの巨大煉瓦工場を買わないかという話。1903(明治36)年にそっくり買い取って、麦芽工場として使い出した。

煉瓦工場はその後、何回も改修、補強の工事を繰り返しはしたが、1965(昭和40)年までの約60年間、戦争をはさんで現役を続けた。会社の方は、幾度かの吸収や合併を経て、1949(昭和24)年にいまのサッポロビールが誕生した。

工場機能を隣接の新工場に譲った後、一時は取り壊しの声もあった。だが、優れた文化遺産を守ろうという機運が勝り、1987(昭和62)年、「サッポロビール博物館」として再生。今は周囲のビール園やジンギスカンホールと共に、市民や観光客の憩いの場となっている。

文・田村 祥蔵

醸造所開業式

サッポロビール博物館提供

■醸造所開業式

明治9年9月の、開拓使札幌麦酒醸造所の開業式風景。木造の工場の前に大きな樽(たる)が積み上げられ、「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる」と白ペンキで書かれている。


日本経済新聞 夕刊 2008年7月3日(木) 掲載

探訪余話

サッポロファクトリー

サッポロビール博物館のすぐ近くにある開拓使札幌麦酒の創業の地にも、別の古い煉瓦(れんが)館が並んでいる。主に大正時代に建てられたもので、今は「サッポロビールファクトリー」として地ビール工場、レストラン、映画館など多彩な施設を抱えている。どの施設も、煉瓦の壁などの古い装飾を生かした落ち着いた雰囲気が売り物。市民になじみの「黒い煙突」も、この施設内に残されている。

1876(明治9)年に札幌で初めてビールが生産されるまでには、明治政府の要人も並々ならぬ関心を示したといわれている。この年、開拓の進捗ぶりを実際に見ようという視察団が北海道を訪れている。三条実美太政大臣を筆頭に、伊藤博文、山県有朋らの有力者も加わる豪華メンバーで、視察コースには麦酒醸造所も含まれていた。ただ、一行が訪れたのは第1号ビール生産の1ヵ月前だったから、試作の試飲ができたかどうか――。

開拓時代の建築

札幌には、札幌麦酒工場の他にも開拓時代の古い建物が多く残っている。最も有名なのは、北海道のシンボルともいわれる北海道庁旧本庁舎。1888(明治21)年にアメリカ風ネオ・バロック様式の煉瓦造りとして完成した。250万個の煉瓦が使われており、東西南北どの角度から見ても美しい。また、「札幌の時計台」として観光名所になっている旧札幌農学校演武場は、1878(明治11)年の築。130年後の今も澄んだ鐘の音を響かせている。

波乱の生涯

札幌麦酒の立ち上げに心血を注いだ村橋久成は「さびしい最期をとげた」と本紙で触れたが、実はその最後は行き倒れであった。1892(明治25)年、神戸市郊外で倒れているところを保護されたが、間もなく亡くなった。

村橋は1843(天保13年)生まれの旧薩摩藩士。23歳の時、薩摩藩が国禁を犯して英国に送った留学生の1人で、早くから西欧社会を体験していた。新政府高官のひとりとしてビール生産を成功させて5年後の明治14年、周囲の反対を押し切って辞職、放浪の旅に出た果てに倒れたのだった。この波乱の生涯は田中和夫著『残響』、西村英樹著『夢のサムライ』の著作にくわしい。

開拓使札幌麦酒醸造所の開業式の写真に見える「樽の文字」は、いま復元されて、サッポロビール博物館の入り口に飾られている。文字は判じ物めくが縦に「麦とホップを製す連(れ)者(ば)ビイルとゆふ酒になる」と読む。

文・田村 祥蔵

サッポロファクトリー

北海道庁旧本庁舎

復元された樽文字