明治・大正・昭和の足跡を訪ねて

歓楽街に建つ浪花っ子のシンボル(写真・多田 征樹)

所在地:大阪市浪速区 完成:1956(昭和31)年

ひと息

通天閣地図

 「子どものころは通天閣の北側に置屋がありまして、夕方になると芸者さんが浴衣を着て風呂入りに行きますねん」(西上雅章通天閣観光社長)。通天閣を境に北側には老舗の料亭や大正3年開業の新世界市場があるが、今では料亭の数も減り、静かに落ち着いている。
 代わって元気なのが串カツ屋や一杯飲み屋、囲碁・将棋センターなどが建ち並ぶ南側。「豚バラ100円」「ちくわ80円」と、食い倒れの町ならではの安さ。理髪店も「サンパツ700円」だ。ジャンジャン横丁の「元祖串カツ」の店には「時代がいかに変わろうと、変えたらあかんものは、なにわの人情、あきんど魂、通天閣の灯、そして串カツの味」と大書してあった。

新世界の商店主が再建 浪花のど根性が輝く 温もり豊かな鉄塔

戦後、焼け跡のバラックで懸命に新しい暮らしを始めた大阪・新世界の人たちが、ようやくひと息ついたとき、何か物足りない思いにとらわれた。ふと見上げた先に、10年ほど前まで目になじんだ鉄塔がないのだ。「通天閣をこしらえな、どうもならん」。住民の力で大阪のシンボルを再建する、前例のない戦いが始まった。

初代は鉄くずで供出

新世界は明治が大正に変わる直前の1912(明治45)年7月、内国勧業博覧会跡地に「理想的共同娯楽園」として建設された。南半分はニューヨークのコニーアイランドを模し、北半分には通天閣を中心にパリ風の放射状の街路を設けた。凱旋(がいせん)門の上にエッフェル塔が載った形のど派手な通天閣は、当時日本一の75メートルで、「ダイヤモンド高い、高いは通天閣」と尻取り歌にも歌われた。

大正、昭和と曲折を経ながらも、大阪のシンボルとなった通天閣だったが、戦時中、足元の映画館からの出火で焼かれ、1944(昭和19)年、解体されて鉄くずとして供出された。その翌年、新世界の町そのものも、大空襲で焼き尽くされたのだった。

1954(昭和29)年、名古屋にテレビ塔が建ち、観光客で賑(にぎ)わっているとのニュースが伝えられた。町の繁栄のため名古屋に負けぬ塔の再建をと、新世界連合会の雑野貞二会長はじめ役員6人、それに自前の設計図まで用意していた麻雀店の知里正雄さんが加わり、建設委員会が結成された。

まだ食べていくのが精いっぱいな時代だった。それでも地元の人たちの数万円ずつの出資で通天閣観光会社を設立、名古屋テレビ塔を設計した内藤多仲早大教授に設計を依頼した。土地が狭く、高さは103メートルが精いっぱいで名古屋を凌(しの)げない。ならばと、展望台を1メートル高い91メートルに設置した。

経済白書が「もはや戦後ではない」とうたった1956年10月、2代目通天閣が再び新世界にそびえ建った。「同志が進取的意気に燃え死を決し断乎としてこれが実現に邁進すべく」(建設記録)、浪花のど根性で立ち上げた懐かしの塔だった。

再建1カ月で20万人が通天閣を訪れ、翌年度には年間155万人を超えた。新世界繁栄の狙いは見事に当たった。だが、58年には通天閣の3倍を超す333メートルの東京タワーが建設され、高さの魅力は半減、入場者も徐々に減っていった。

70年代に至り、光化学スモッグで展望台の見晴らしも悪くなり、オイルショックで大阪の夜を彩るネオンサインも2年半、消えてしまった。75年度には19万人強と入場者数も最低を記録している。

ビリケンさんも100歳

だが通天閣は、ただの物見の塔ではない。新世界住人の商人魂のシンボルであり、浪花っ子の意地と人情の絆である。一時期、通天閣観光の相当数の株が新世界と無縁な外部の株主の手に渡ったことがあった。

そのときも西上雅章現社長の父親ら商店会幹部が多額の資金を工面して買い戻している。武骨な鉄塔なのに、どこか人間くさい温(ぬく)もりが漂うのも、そんな熱い思いに包まれているからだろう。

景気の波に揺られ、繁閑を繰り返す新世界と通天閣。往年のちょっと怖い大人の町は今、人気の串カツ店に若い男女が列をつくる明るい繁華街に変わった。

戦前の新世界に祀(まつ)られた米国渡りの幸福の神様、ビリケンさんの100周年を迎えた今年3月には、年間入場者数が106万6千人を記録。大阪万博のあった70年度以来、37年ぶりの100万人超えだった。

串カツと立ち飲み酒でほろ酔い気分の帰り道、後ろ髪を引かれる思いで夕闇の通天閣を振り返った。明日の天気を知らせるてっぺんのネオンが、「曇りのち晴れ」を示す赤と白に輝いていた。

文・石田 修大

初代通天閣

通天閣観光提供

■初代通天閣

「新世界はエツフヱル式高塔を中心として四方八面に展開せる三萬余坪の新市街を云ふ」(大阪新名所新世界写真帖)。明治の最後に姿を現した初代通天閣は、浪花っ子の度肝を抜くモダンな展望塔だった。


日本経済新聞 夕刊 2008年6月5日(木) 掲載

探訪余話

ビリケンさんの新世界

名古屋テレビ塔の展望台より1メートル高くしたという通天閣5階の展望台に、木像のビリケンさんが祀られている。とんがり頭につり上がった目、薄笑いしているような口元、キューピッドのようなメタボ腹。合格祈願、縁結びもかなえる幸福の神様というが、ありがたいというよりは、今風にいえば「キモカワイイ」というところか。

通天閣同様、ビリケンさんも2代目。1908(明治41)年にアメリカの女性美術家が夢に見た神様を形にしたところ大人気。4年後にオープンした新世界の遊園地ルナパークに石膏像がまつられたが、その後行方不明になってしまった。1980(昭和55)年に大阪の繊維会社「田村駒」が商標として使っていた像をもとに再現、展望台に安置した。

投げ出した足をなでるとご利益があるといわれ、来場者の際限のない願いのせいか、ビリケンさんの足裏はへこんでしまっている。台座に刻まれた「THE GOD OF THE THINGS AS THEY OUGHT TO BE」は、万事あるがままに司る神といった意味とか。生誕100年の今年、久しぶりに来場者が100万人を超えたのも、好況、不況の波にもジタバタせず、「ぼちぼちいこか」と腹の据わった浪花商人精神に、ビリケンさんが応えてくれたのかもしれない。

通天閣を文字通り足元で支えているのが新世界の商店街。ビルの壁面一杯にありとあらゆる宣伝文句を書き並べ、張りぼての看板を吊り下げ、それでも足りずに路上にも案内板を立てる、目がくらむほどの宣伝ぶり。コテコテの大阪流というのはこれかと、圧倒されるばかりだ。

そんななか、名高いジャンジャン横丁が思いの外落ち着いたたたずまいを見せている。かつて三味線の音が絶えなかったところから名付けられたというが、碁・将棋センターや間口の狭い古い商店が並び、派手さはない。「ジャンジャン横町美術館」と名付け、壁面に初代通天閣や戦前の新世界の写真が展示されていた。

イラストの新世界マップや戦前の地図、横丁のテーマソング「恋してジャンジャン」発売中のチラシなどが目に付く。「若手の会『新世代』」の表記があり、2代目、3代目が商店街の盛りたてに一役買っていることが見て取れる。4年後に誕生100年を迎える新世界。若手を中心に、21世紀の新たな新世界の姿を模索中とみた。

文・石田 修大

ビリケン像

看板と宣伝文句のあふれた新世界

狭い露地のジャンジャン横町

古い写真を並べた壁の美術館